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この記事の目次
今度は後藤又兵衛の息子が発見される
後藤又兵衛は、大坂夏の陣の道明寺の戦いで、圧倒的な劣勢の中を奮闘して壮絶な討ち死にを遂げた人物ですが、彼の子孫も箕浦誓願寺事件を契機に発見されました。
又兵衛の息子は和泉国淡輪村で地元の百姓の娘と結婚して帰農し平穏に暮らしていましたが、突如として出現した幕府の捕り手に捕まり、大坂代官所で取り調べを受けた上で、京都所司代へと護送されます。
そして、ここで身内の事について根ほり葉ほり聞かれました。豊臣方の残党とは無関係という事で無罪放免になりましたが、今後の事もあるので村から出ないように厳命されました。又兵衛や治房の息子たちからすれば、降って湧いた災難ですが、幕府はそれほどまでに豊臣方の動きに警戒していたのです。
その後チヤホヤされだす子孫たち
一時は身を隠す必要もなかったのに、生臭坊主の腹いせのお陰でひどい目にあった治房や又兵衛の子供達ですが、寛文2年(1662年)になると、また周囲の目が変化しだします。
先の後藤又兵衛の息子の子、すなわち後藤又兵衛の孫が大坂城代の青山宗俊に取り立てられ、青山氏の家臣として代々続く事になりました。
さらに又兵衛の末っ子は、母方の姓の三浦を名乗って鳥取の池田家に仕えましたが、高貴の血筋として珍重され、孫の代の享保17年(1732年)には後藤姓に復したいと藩に願い出て許されています。
罪人扱いされ、厳しい監視に置かれた後藤又兵衛や大野友房の子孫が、今度は大名や城代に召し抱えられたわけですが、これには江戸幕府の安定が関係していました。
由比正雪の乱以後、戦国乱世の気風はほぼ一掃され、社会は武断政治から文治政治に転換し、戦う存在だった武士は自己のアイデンティティに悩まされます。そこで、かつて忠義を尽くした武士に対するリスペクトの精神が起こり敵味方問わず、立派な最期を迎えた武将の子孫を登用するのがブームになったのです。
大坂夏の陣の逆臣たちは社会の変化で罪人から一転して英雄になり、日陰者扱いの子孫たちは、逆に先祖の恩恵を受ける事になったのでした。
戦国時代ライターkawausoの独り言
父や祖父が有名人だと、直接、間接を問わずその影響を受けますよね。
それも、自分が有名人の父と全く関係ない無名の一市民だったら、多分デメリットの方が大きくなるような気がします。その中でも親子となると、父親を知っている分はうざったそう。後藤又兵衛の子孫も、仕官は適ったものの、なにかと言えば先祖と比較され、さぞかし難儀な事もあったのではないでしょうか?
参考文献:戦国時代を読み解く新視点 歴史街道編集部 PHP新書
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