
麒麟がくる18話はいよいよ新章に突入、明智荘から落ち延びた明智光秀の一族は帰蝶が手配した伊呂波太夫のお陰で越前に落ち着きます。ここを支配していたのが戦国大名朝倉氏の11代当主の朝倉義景でした。しかし、朝倉義景は京都に近く経済も発達した越前を領有しながら何度も訪れたチャンスを逃がし滅亡してしまうのです。
この記事の目次
朝倉孝景の子として越前に生まれる
朝倉義景は天文2年(1533年)越前の戦国大名朝倉孝景の長男として生まれます。父孝景は、なかなか男子に恵まれず40歳で初めて挙げた男子という事で大事にされたようですが、義景の幼少期は記録に乏しく、逸話もほとんどありません。
天文17年3月、父の孝景が死去したので16歳で家督を継いで名前を長夜叉から朝倉延景と改め、京都に代替わりの使者を送っているのが御湯殿上日記の記述から分かります。
重臣朝倉宗滴の補佐で滑り出し上々
16歳の義景でしたが、政治と外交は70歳オーバーの名将、朝倉宗滴(教景)が一手に引き受けて特に心配ありませんでした。天文21年には、当時の室町幕府の将軍、足利義輝より義の一字を受けて名前を義景と改めています。さらに、義景は一等官である左衛門督の官途を与えられ、従来の朝倉家当主よりも優遇されていました。
この理由は、名将だった父の孝景が室町幕府の御供衆や相伴衆に昇格して地位を高め、また義景の正室が当時将軍家を庇護していた細川晴元の娘だった事も影響しているようです。義景も義輝に鷹を献上するなどして、個人的な交流も忘れていません。
戦国加賀一向一揆攻めで初陣
弘治元年(1555年)重臣の朝倉教景が病死、22歳になっていた義景は自ら政務を執るようになります。永禄6年(1563年)義景は親戚筋の若狭武田氏を救援し、反乱を起こした粟屋勝久を攻撃して若狭出兵を繰り返します。
翌年の9月1日には、一門の朝倉景鏡と朝倉景隆を大将とした朝倉軍が仲が悪い加賀一向一揆に攻撃を仕掛けていて、9月12日には義景も珍しく出陣したりして、御幸塚や湊川に放火して一乗谷に帰還しています。この年義景は30歳、もしかするとこれが義景の初陣なのかも知れません。
足利義昭を保護する
永禄8年(1565年)5月19日、将軍足利義輝が三好義継らによって暗殺されます。世に言う、永禄の政変です。この時、義輝の叔父、大覚寺義俊が上杉謙信に充てた書状によると、義輝の弟の覚慶(足利義昭)が近江に逃げて来た背景には義景の影響があり義景は義輝の遺臣、和田惟政・細川藤孝・米田求政らと連絡を取り合っていたようです。
若狭武田家を頼っていた足利義昭ですが、武田氏が頼りにならないので、越前敦賀に移動します。義景は景鏡を使者として遣わしその来訪を歓迎しています。さて、足利義昭は、敵対する三好三人衆が足利義栄を将軍に祀り上げている関係から上洛を焦っていて、何とか朝倉義景の庇護で上洛したがっていました。
そこで、加賀一向一揆と朝倉家との和睦を斡旋して問題を取り除こうと奮闘しなんとか加賀一向一揆との和解も成立させています。こういう所は義昭は非常に有能なんですが、それでも義景は上洛に動きません。焦れた足利義昭は、手数を増やそうと上杉謙信など諸大名にも上洛を促す書状を送るもののどこの大名も乗り気ではありませんでした。
義昭に愛想を尽かされる
八方ふさがりの足利義昭は、どうしても義景に上洛を頼む必要があり、非公式ながら義景の館を訪問し管領並みの格式で遇して、機嫌を取ります。永禄11年(1568年)3月8日、義昭により、義景の生母広徳院が二位の尼に叙せられます。しかし義景の腰は重く、さらに折悪しく溺愛していた嫡男の阿君丸が死んで悲しみの淵に沈み、上洛どころではなくなりました。
(ダメだ、こいつ、、ここにいたら、ジジイになっても上洛できんぞ・・)
しびれを切らした義昭は、この頃、美濃国を支配下において勢いに乗る織田信長を頼ろうとします。あわてて、義景は止めようとしますが義昭の決意は固く、滞在中の礼を厚く謝する御内書を残して一乗谷を去りました。結果、織田信長が上洛を果たしてしまいますので、義景は大きな魚を逃した事になります。
織田信長の上洛命令を無視
永禄11年9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たします。そして、信長は将軍義昭の命令として、義景に二度に渡り上洛を命じますが、なんと義景はこれを拒否しました。
理由は色々ありますが、大きいのは織田家が朝倉家より格下の守護代の又代に過ぎないという事もあります。さらに、信長の態度も高圧的であり、(なんで、尾張のイモに頭を下げねばならんのだ)という反発が義景にはあったようです。
しかし、これは悔いても追いつかない失敗でした。実質はどうあれ、義景は足利将軍の命令に背いたのですから信長に討伐の口実を与えたようなものだったのです。
明智光秀と木下秀吉に追撃を阻まれる
永禄13年(1570年)織田信長は義景に叛意ありとして、越前出兵を開始します。織田・徳川連合軍は連戦連勝、天筒山城と金ヶ崎城が織田軍の攻勢の前に落城しました。これに対し、義景は後詰の軍として出陣しますが、途中一乗谷で騒動が起きたとして引き返しています。
すわ!このまま一乗谷で籠城戦か?と思いきや、ここで信長の妹婿の浅井長政が裏切り織田軍の背後を襲いました。窮地に陥った信長は殿を木下秀吉と明智光秀に任せて京都に退却します。
一気にチャンス到来の義景は退却する織田軍を追わせますが、秀吉と光秀の巧みな退却戦に対応できず、信長含め、多くの有力部将を取り逃がします。なにからなにまで鈍くさい義景は、またしてもチャンスを見逃すのです。
ああ、もったいない、なんと勿体ない・・
姉川の戦いでも全力出さず・・
元亀元年(1570年)6月28日、逆襲の信長は、織田・徳川連合軍で、朝倉・浅井連合軍と姉川で激突しました。しかし、この時の朝倉軍の総大将は義景ではなく、一族の朝倉景健で兵力も8000人に過ぎませんでした。朝倉軍は徳川軍と対戦したが榊原康政に側面を突かれて敗戦。戦いは朝倉・浅井連合軍の敗戦に終わりました。なんで、こう本気を出さないんですかね、義景・・
しかし、全体的に嫌われている織田信長は、浅井・朝倉だけに構っていられません。三好三人衆・石山本願寺と戦う為に、今度は摂津国に出兵します。
このチャンスに義景は自ら出陣、浅井軍と共同し織田領の近江坂本に攻め込み、織田信治と信長の重臣・森可成を敗死に追い込みます。さらに大津で街中を焼き払います。しかし信長が軍を近江に引き返したので、義景は比叡山に立て籠もって織田軍と対峙。織田と朝倉は小競り合いを続けますが、12月に信長と義景は朝廷の仲介で和睦します。
その後、信長は羽柴秀吉に命じて、近江・越前の街道を封鎖して義景を経済封鎖、朝倉義景は敵対していた本願寺顕如と和睦し婚姻関係を結び、信長への対決姿勢を強めます。
朝倉義景、浅井長政を救援できず
元亀3年(1572年)7月、信長は浅井家の本拠、小谷城を包囲し、虎御前山・八相山・宮部の各砦を整備し始めます。窮地の浅井氏は朝倉氏に長島一向一揆が尾張と美濃の間を封鎖したので、今出撃してもらえれば、織田軍を討ち果たせると嘘の情報を流し、義景はこれを信じて浅井支援に赴きます。
しかし義景は出兵はしたものの、積極的な攻勢には出られず織田軍から散発的な攻撃を受けると前波吉継や富田長繁ら有力家臣が信長方に寝返り身動きが取れずグダグダになります。さらに、義景は信長から決戦の申し込みを受けて無視、家臣の信用をさらに失いました。結局、砦は完成し信長は秀吉に砦を任せて横山城に引っ込んでしまいました。
義景、信玄ちゃんに叱られる
元亀3年10月、甲斐の武田信玄が西上作戦を開始、遠江・三河方面へ侵攻し徳川領を奪い取っていきます。この出兵の際、信玄は義景に対しても協力を求めました。
慌てた信長が岐阜に撤退して信玄に備えると、これはチャンスと義景は浅井勢と共同で打って出ますが、虎御前山砦の羽柴隊に敗北して進む事が出来ません。
さらに、12月3日、義景は部下の疲労と積雪を理由に越前へと独断で撤退。そのため信玄から「もっと真面目にやれよ!」と激しく手紙で叱られています。信玄はなおも、ぶつくさ言いつつ、義景の出馬を要求しますが、義景は応じずとうとう4月12日、武田信玄は陣中で病死。武田軍は甲斐に引き揚げました。
後から、思えば、この武田信玄との同盟が義景が動ける最期のチャンスでした。武田信玄が消えた信長は大喜びし、いよいよ朝倉滅亡に王手を打ちます。
浅井を救援に向かうも家臣はついて来ず
天正元年(1573年)8月8日、信長は3万の軍を率いて浅井攻めを開始します。これに対して朝倉義景も軍を率いて出陣しようとしますが、これまで残念なヘタレぶりを見せつけてきた義景に家臣たちは冷淡でした。
なんかー疲れてるんでー出陣できませーん!
こんなふざけた理由で朝倉家の重臣である朝倉景鏡、魚住景固らが義景の出陣命令を拒否します。このため義景は山崎吉家、河井宗清らを招集して重臣抜きで2万の軍勢を率いて出陣します。
8月12日、信長は暴風雨を突いて、朝倉方の砦である大嶽砦を自ら攻めました。信長の奇襲により朝倉軍は敗退して砦から追われ、8月13日には丁野山砦が落ち義景は長政と連携を取り合うことが不可能になり義景はやむなく、越前への撤兵を決断します。
一乗谷炎上
ところが信長は義景の撤退を予測しており、朝倉軍は信長自らが率いる織田軍の追撃を受け朝敗退し柳瀬に逃走しました。しかし、信長の追撃は厳しく、朝倉軍は撤退途中の刀根坂において織田軍に追いつかれ、壊滅的な被害を受け、義景自身は疋壇城に逃げ込み、さらに逃走して一乗谷を目指しますが、この頃には配下がボロボロ逃げ出し、残ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近のみでした。
8月15日、義景は一乗谷に惨めに帰還。ところが朝倉軍の壊滅を知り一乗谷の留守を守っていた将兵の大半は逃走。義景が出陣命令を出しても朝倉景鏡以外は出陣しませんでした。
もう、どうにもならなくなった義景は自害しようとしますが、近臣に止められます。そして、義景は、朝倉景鏡の勧めに従って一乗谷を放棄して東雲寺に逃れました。
8月18日、織田軍は信長を先頭に柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込み居館や神社仏閣などを放火、放火は3日も続き一乗谷は灰になります。
義景の人物と最後
従兄弟の朝倉景鏡の勧めで東雲寺から賢松寺に逃れていた義景でしたが、8月20日早朝、最後まで頼っていた景鏡が織田信長と通じて裏切り賢松寺を200騎で襲撃したのです。ここに至って、気力も衰えた義景は自害して果てます。41歳でした。京都に近く、豊かな越前を保持しながら、何度もチャンスを見逃した義景は、最後には、一門にさえ裏切られ孤独な最期を遂げたのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
優柔不断だった朝倉義景には、いちかばちか、己の信じた事に全力を投入するという事が無かったように感じます。どんなチャンスにも、まったくリスクがない事はあり得ないのですが、どうも義景は、完全に安全なチャンスを求め過ぎたようで、そんな事はあるはずもなく、悔いても追いつかない状況に我が身を追い込んだのです。
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