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牛肉たたき禁止!肉食禁止令はいつから始まった?


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肉食禁止令はいつから(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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文明開化と肉食

幕末77-14_錦の御旗

 

明治新政府は、富国強兵の必要性から、日本人の体格向上を意図し発足当初から肉食奨励(しょうれい)のキャンペーンを大々的に展開。明治2年(1869年)には、半官半民の食品会社「牛馬会社」を設立し畜肉の販売を開始しています。

 

明治5年(1872年)明治天皇が初めて牛肉を食した頃から、庶民の間では獣肉食に関する禁忌は次第に弱まっていきます。ただし獣肉食を穢れとする仏教に依拠した考えは依然一部では根強く、明治政府は学者に啓蒙活動を繰り返させ牛豚食を奨励していました。

 

一方で禁忌関係なく、当時は屠殺(とさつ)した牛豚の血抜きが不完全で煮炊きすると悪臭が漂ったので、庶民が単純に敬遠するということもあり、食肉の処理技術が向上して臭いが無くなると、次第に抵抗は弱まっていきます。

四頭立ての馬車 文明開化

 

明治中期になると、外食ばかりではなく、家庭でも西洋料理が作られるようになります。その代表が、醤油や味噌で味付けする和洋折衷(わようせっちゅう)のすき焼きで、明治初期には牛なべと呼ばれていたものです。

 

1895年(明治28年)の「時事新報(じじしんぽう)」には煮た牛肉やネギが臭くてたまらないので、香水をふりかけたと言う新婚家庭の笑い話が掲載されています。また、明治中期には海外留学して実際に西洋料理を習った料理人が雑誌に登場し、肉じゃがやカレーなどのレシピが公開され、庶民は適当に代用品を加えつつ、西洋料理を家庭の味として受け入れていきました。

 

陸海軍と肉食文化

西郷従道 幕末

 

肉食の普及には国民皆兵軍として生まれ変わった帝国陸海軍も関与していました。

 

明治時代、帝国陸海軍の兵士の死因の大半を占めていた脚気(かっけ)について、海軍省医務局長の高木兼寛(たかきかねひろ)は、病因はタンパク質の不足にあると考え、脚気対策として海軍の兵食を西洋式に改めることを上申します。

 

しかし、兵員の多くがパンと肉を嫌って食べず、明治18年から海軍では併用して麦飯も支給されることとなりますが、脚気の病因はタンパク質ではなくビタミンBの欠乏であり、皮肉にも麦飯の支給で海軍の脚気患者は劇的に減少しました。

大山巌

 

海軍に負けじと帝国陸軍でも、兵食や野戦糧食に肉食や洋食が多く取り入れられ、明治43年(1910年)制定の陸軍公式レシピ集「軍隊料理法」には、肉をメインとする洋食レシピとして、カツレツやビーフステーキ、ロール・キャベツ、カレーライス、シチュー、オムレツ、肉スープ、コン・ビーフなどが掲載されています。

 

明治政府も役人に対し、外交上あるいは外国人との交際上の理由から肉食を奨励しています。洋上勤務で海外へ派遣される事も多い海軍軍人に対しても上野精養軒(うえのせいようけん)で食事をすることを奨励し、月末に精養軒への支払いが少ない士官に対し注意される事もあったようです。

 

日露戦争が肉食を固定させた

 

日本人の肉食普及に決定的な影響を与えたのは日露戦争(にちろせんそう)でした。30万人という大軍を1年以上も中国大陸に派遣した結果として食糧問題が急務になり、戦場食糧として牛肉の大和煮缶詰や乾燥牛肉が考案され大量に製造されたのです。

 

こうして、軍隊で牛肉の味を覚えた庶民が増え肉食への抵抗が大きく薄れました。缶詰は開ければすぐに食べられ面倒もないので、柔らかい牛肉というイメージが定着します。日露戦争は日本人に肉食文化を定着させるのに決定的な役割を果たしたのです。

 

また、戦地で牛肉が消費された為、国内では牛肉が不足し、豚肉が脚光を浴びることになり、1883年には年間消費量1人4グラムであったものが大正末年の1926年には500グラム以上に上昇します。

 

1923年9月1日の関東大震災では、食糧不足の中でコンビーフの輸入が急増、輸入品としては格安だったので、缶詰食が大きく大衆に広がりました。大正期には豚カツが登場、三大洋食がカレー・とんかつ・コロッケとまで言われるようになります。

 

昭和初期まで、日本人の動物性タンパク源は、まだま魚肉が中心でしたが、獣肉食に対する禁忌の感情はほぼ無くなり、戦後には魚肉と獣肉の割合は逆転するのです。

 

kawausoの独り言

kawauso 三国志

 

肉食禁止令は、仏教が本格的に入ってきた奈良時代に殺生を忌むという風潮から誕生し、天皇や貴族、僧侶に守られましたが、庶民には余り影響がありませんでした。

 

平安末期に武士が政権を握ると、狩猟を文化とする武士の獣肉食の影響を受け、肉食を禁忌とする貴族や僧侶と文化ギャップが発生しましたが、武士の影響に引きずられて秘密裏に肉食する貴族や僧侶も出てきます。

 

戦国時代には、宣教師の記録から日本では豚が飼育されるなど、牛や馬以外の獣肉への禁忌は弱まりますが、江戸時代中期の生類憐みの令により、一時的に獣肉食への禁忌が強まり、その後は肉を食う文化はあるものの、血が穢れるや薬として食べると言う言い訳が不可欠になります。

 

しかし、明治に入ると肉食=文明開化というイメージ戦略が功を奏し、西洋に追いつけ追い越せから牛馬も含めた肉食文化が復興し、日露戦争により牛肉の缶詰が登場して、従軍兵士に食べられるようになり、一気に肉食の普及が広まったのです。

文:kawauso

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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