牛肉のたたきが、寄生虫や細菌感染などの問題がある事から提供の基準が厳しくなり、一部飲食店では牛肉たたきが禁止になった事件がありました。ユッケやタルタルステーキや、牛刺し等も、牛たたきに含まれますが、そもそも日本では江戸時代仏教の影響で肉食が禁止されたとか聞きますよね?
一体、肉食禁止令は、いつ頃から始まり廃れて行ったのでしょうか?
日本の肉食文化史
農耕が始まる前、石器時代には日本人も当然肉食に依存していました。旧石器時代の花泉遺跡からは、ハナイズミモリウシや原牛、ヤベオオツノジカ、ヘラジカ、ナツメジカ、ナウマンゾウ、ノウサギ等の骨が出てきます。
この時代は氷河期で植物性の食べ物が少なく漁撈が未発達で魚も取れないので、ビックゲームという大型哺乳類の狩猟を中心とした食肉生活に依存するしかなかったのです。
次の縄文時代も肉食は続き、動物の臓器であるいわゆるホルモンも、有機塩酸やミネラル、ビタミンを得る目的から食べていました。弥生時代になると農耕が入りますが相変わらず肉食は継続しますが、臓物は食べなくなり塩分は海水から摂るようになります。
魏志倭人伝には、倭には牛馬はいないと書かれ、近親が死ぬと10日間は肉を断つとありますがその時以外は、普通に肉食していたようです。しかし、古墳時代を通じて飛鳥時代、奈良時代になると仏教の流入により血の出る殺生は不浄とされ、貴族は肉食を忌むようになり庶民と貴族の食事が分離していくようになります。
平安末期から武士が政権を取ると狩猟民であった武士は、ウサギ、猪、鹿、クマ、狸などの鳥獣を平気で食べるので一時は獣肉のタブーが薄まりますが、寺社や貴族の肉食禁忌は強く、しばしば武士と貴族でトラブルが起きています。
ただ、大っぴらに獣肉を食べる武士のお陰で貴族や僧侶にも密かに肉食をする人々は出てきました。南北朝から戦国期を迎えると、南蛮人により日本人の肉食文化が記録されるようになります。
宣教師の報告では、日本人は牛、豚、羊の肉を忌むと書かれると同時に、野犬や鶴、犬猿、猫、生の海藻などを喜ぶとあり、食べてよい獣肉と禁忌の獣肉が別れてきている様子が見て取れます。
すでに戦国時代には四国では商業捕鯨が始まり、阿波の三好氏の拠点である勝瑞城の館跡地では、牛馬に豚や鶏、鯨、犬や猫などの骨が数多く出土しています。食用だけでなく鷹の餌や愛玩用として家畜が飼われていて、肉が市場に流通していたようです。ただ獣肉食の地域差は大きく、京では牛馬の肉食はタブーで宣教師が牛馬を食べる事に豊臣秀吉が激怒し詰問したりしています。
日本においては、獣肉食に関する嫌悪感が時代と共に変化していますが、概ね、狩猟で得た獣肉は食べてよく家畜を殺した獣肉には嫌悪感があり、特に牛や馬、豚のような四つ足が悪く、鳥や魚になると禁忌が弱まる傾向がありました。
元禄以前の肉食文化
江戸時代でも建前として獣肉食の禁忌が守られます。特に上流階級は禁忌を守り、例えば狸汁は戦国時代には狸を使っていたものが江戸時代にはコンニャク、ごぼう、大根を煮たものに置き換わるなど変化がありました。
それでも庶民には肉食が残り、1613年に平戸島に商館を開設したイギリスのジョン・セーリスは陸路で大坂から駿河に向かう途中の風景として豚が多く飼育されていると書いています。
また江戸初期1643年に発行された料理物語には、狸、猪、兎、鹿、熊、犬を具とした汁料理が紹介され、元禄前の延宝・天和の頃には江戸四ツ谷に獣市が立ったことが、江戸後期の書物「嬉遊笑覧」に出て来ます。さらに、1718年には獣肉料理の専門店「豊田屋」が江戸の両国で開業しているなど、肉食文化は庶民には受け継がれて残っていました。
江戸時代における肉食の禁忌の頂点は、生類憐れみの令などが施された17世紀後半の元禄時代でした。動物愛護を謳ったこの法令自体は徳川綱吉の治世に限られましたが、特に犬を保護したことについての影響は後世まで尾を引き、日本では戦国時代までポピュラーだった犬食が姿を消しています。
元禄以後の肉食文化
しかし、江戸も中期になると庶民の間でも獣肉は食べているものの、それにより血が汚れるなど、下手物的な評価が肉食に与えられるようになります。
享保18年(1733年)に伊達家の橘川房常が書いた「料理集」では、牛肉を粕漬けあるいは本汁として使うことができるものの、食後150日は血が穢れる事が書かれています。
ただ、これは本当は美味い肉食をする上での逃げ口上でもあり、実際、彦根藩は毎年の寒中に藩で飼育している赤斑牛の味噌漬けを「反本丸」と呼び、滋養強壮薬として将軍と御三家に献上していました。
御三家水戸藩主の徳川斉昭は、彦根藩の赤牛の味噌漬けが好物だった事が分かっていますし、斉昭の子で江戸幕府最期の将軍、徳川慶喜は豚肉が大好物であり、豚一公とあだ名を付けられています。
19世紀の寺門静軒の著「江戸繁昌記」にも、大名行列が麹町平河町にあった獣肉店ももんじやの前を通るのを嫌がったことが記録され、ももんじやでは、猪、鹿、狐、兎、カワウソ、オオカミ、クマ、カモシカなどが供されていました。
江戸も後期になると、相変わらず牛馬の食用には禁忌があるものの、穢れではなく栄養学の見地から肉食を評価する試みが、西洋の文物を研究する蘭学などを中心に起きていました。
ペリー来航後は、西洋人が持ち込んだ牛肉食が一部の日本人に浸透し、外交交渉等でも当初は本膳料理、その後は西洋料理で饗応が行われるようになります。
文明開化と肉食
明治新政府は、富国強兵の必要性から、日本人の体格向上を意図し発足当初から肉食奨励のキャンペーンを大々的に展開。明治2年(1869年)には、半官半民の食品会社「牛馬会社」を設立し畜肉の販売を開始しています。
明治5年(1872年)明治天皇が初めて牛肉を食した頃から、庶民の間では獣肉食に関する禁忌は次第に弱まっていきます。ただし獣肉食を穢れとする仏教に依拠した考えは依然一部では根強く、明治政府は学者に啓蒙活動を繰り返させ牛豚食を奨励していました。
一方で禁忌関係なく、当時は屠殺した牛豚の血抜きが不完全で煮炊きすると悪臭が漂ったので、庶民が単純に敬遠するということもあり、食肉の処理技術が向上して臭いが無くなると、次第に抵抗は弱まっていきます。
明治中期になると、外食ばかりではなく、家庭でも西洋料理が作られるようになります。その代表が、醤油や味噌で味付けする和洋折衷のすき焼きで、明治初期には牛なべと呼ばれていたものです。
1895年(明治28年)の「時事新報」には煮た牛肉やネギが臭くてたまらないので、香水をふりかけたと言う新婚家庭の笑い話が掲載されています。また、明治中期には海外留学して実際に西洋料理を習った料理人が雑誌に登場し、肉じゃがやカレーなどのレシピが公開され、庶民は適当に代用品を加えつつ、西洋料理を家庭の味として受け入れていきました。
陸海軍と肉食文化
肉食の普及には国民皆兵軍として生まれ変わった帝国陸海軍も関与していました。
明治時代、帝国陸海軍の兵士の死因の大半を占めていた脚気について、海軍省医務局長の高木兼寛は、病因はタンパク質の不足にあると考え、脚気対策として海軍の兵食を西洋式に改めることを上申します。
しかし、兵員の多くがパンと肉を嫌って食べず、明治18年から海軍では併用して麦飯も支給されることとなりますが、脚気の病因はタンパク質ではなくビタミンBの欠乏であり、皮肉にも麦飯の支給で海軍の脚気患者は劇的に減少しました。
海軍に負けじと帝国陸軍でも、兵食や野戦糧食に肉食や洋食が多く取り入れられ、明治43年(1910年)制定の陸軍公式レシピ集「軍隊料理法」には、肉をメインとする洋食レシピとして、カツレツやビーフステーキ、ロール・キャベツ、カレーライス、シチュー、オムレツ、肉スープ、コン・ビーフなどが掲載されています。
明治政府も役人に対し、外交上あるいは外国人との交際上の理由から肉食を奨励しています。洋上勤務で海外へ派遣される事も多い海軍軍人に対しても上野精養軒で食事をすることを奨励し、月末に精養軒への支払いが少ない士官に対し注意される事もあったようです。
日露戦争が肉食を固定させた
日本人の肉食普及に決定的な影響を与えたのは日露戦争でした。30万人という大軍を1年以上も中国大陸に派遣した結果として食糧問題が急務になり、戦場食糧として牛肉の大和煮缶詰や乾燥牛肉が考案され大量に製造されたのです。
こうして、軍隊で牛肉の味を覚えた庶民が増え肉食への抵抗が大きく薄れました。缶詰は開ければすぐに食べられ面倒もないので、柔らかい牛肉というイメージが定着します。日露戦争は日本人に肉食文化を定着させるのに決定的な役割を果たしたのです。
また、戦地で牛肉が消費された為、国内では牛肉が不足し、豚肉が脚光を浴びることになり、1883年には年間消費量1人4グラムであったものが大正末年の1926年には500グラム以上に上昇します。
1923年9月1日の関東大震災では、食糧不足の中でコンビーフの輸入が急増、輸入品としては格安だったので、缶詰食が大きく大衆に広がりました。大正期には豚カツが登場、三大洋食がカレー・とんかつ・コロッケとまで言われるようになります。
昭和初期まで、日本人の動物性タンパク源は、まだま魚肉が中心でしたが、獣肉食に対する禁忌の感情はほぼ無くなり、戦後には魚肉と獣肉の割合は逆転するのです。
kawausoの独り言
肉食禁止令は、仏教が本格的に入ってきた奈良時代に殺生を忌むという風潮から誕生し、天皇や貴族、僧侶に守られましたが、庶民には余り影響がありませんでした。
平安末期に武士が政権を握ると、狩猟を文化とする武士の獣肉食の影響を受け、肉食を禁忌とする貴族や僧侶と文化ギャップが発生しましたが、武士の影響に引きずられて秘密裏に肉食する貴族や僧侶も出てきます。
戦国時代には、宣教師の記録から日本では豚が飼育されるなど、牛や馬以外の獣肉への禁忌は弱まりますが、江戸時代中期の生類憐みの令により、一時的に獣肉食への禁忌が強まり、その後は肉を食う文化はあるものの、血が穢れるや薬として食べると言う言い訳が不可欠になります。
しかし、明治に入ると肉食=文明開化というイメージ戦略が功を奏し、西洋に追いつけ追い越せから牛馬も含めた肉食文化が復興し、日露戦争により牛肉の缶詰が登場して、従軍兵士に食べられるようになり、一気に肉食の普及が広まったのです。
文:kawauso
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