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乱世は本当に収まったのか?
後の世だから言えることですが、王允や呂布が政権をとってもまともな政治を行ったかどうかは分かりません。もしかしたら董卓よりも酷い状態が続いたかもしれません。
しかし事実として賈クが献策を行ったことにより、李カクらが長安に入ることとなってしまって後漢の時代がまた終焉へ加速してしまったことは事実です。
つまり董卓暗殺の後の行動による賈クへの非難は乱世が続いたことよりも、後漢という時代の終焉を招いた、不遜である……という非難が込められているのでは、と筆者は推測します。
裴松之の非難の先
なので「儒教思想から賈クを非難した」のか「結果として乱世が続いたから非難した」のかは難しい所だと思いますが、筆者的には根底にある感情から前者の方ではないかと思うのです。
董卓暗殺の後の王允と呂布の行動を見ていると、このまま後漢の時代を乱れることなく続けられたとはあまり想像できないということもありますが、乱世が続いたのが全て賈クの責任とも思えないのです。
なので筆者は当時の教育の方針や思想、観点から非難されたのではと想像します……いや、もしかしたらそもそも裴松之が単にただ賈クが嫌いだったのかもしれませんが、それを言ってしまうともうここまでの想像ぜんぶ無駄になってしまいますからね!
賈ク先生の裏切りは問題?
では最後にちょっと賈ク先生の裏切り行為というか、主君替えの経緯を見てみましょう。
董卓から李カク(董卓が死んだので)
李カクから張済(乗り換えた)
張済から張繡(張済が死んだ後継者)
張繡から曹操(張繡と一緒に降伏)
と、実は裏切った、主君変えたと言えるのは一度だけ。それも李カクに命を狙われて、という身を守るための理由もあります。良く主君を変えた主君を変えた、と言われる賈ク先生ですが、そんなに裏切っているような人ではないことを最後に弁護させて下さいね。
三国志ライター センのひとりごと
見返す度に思うのですが裴松之の主観と言うか、人の好き嫌いはどこに理由があるのでしょうか。その他にもやたら審配のことが好きだったり、中々面白い人でもあります。正史三国志は陳寿が書いたものですが、その注釈を見ていくだけでも結構面白いのがポイント。裴松之の注釈だけでも読みごたえがありますので、一度注釈だけに注目してみて下さい。
文:セン
参考文献:魏書賈ク伝
宋書 南史
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