ドラえもんに「独立!のび太国」という話があります。これは、お好み建国用品色々というドラえもんの秘密道具を駆使して、のび太が独立国を作ってしまうという話なんですが、これは全くの漫画か?というとそうではありません。
世界には、ほとんどのび太のような動機でシーランド公国という世界一小さな独立国を建国した人がいるのです。
この記事の目次
シーランド公国建国前
シーランド公国とは、北海の南端、イギリス南東部のサフォーク州の10㎞の沖合に浮かぶ、構造物を領土と主張する立憲君主制の自称国家です。
バチカン市国よりも面積が小さいので世界最小の国家を自称していますが、シーランド公国を明示的に承認した国はないので、なんちゃってのミニ国家、ミクロネーションというジャンルに属しています。
元々、シーランド公国は、第二次世界大戦中に沿岸防衛の拠点としてイギリスが建造した4つの海上要塞と多数の海上トーチカから構成されるマンセル要塞の一部した。
シーランド公国は、ラフス・タワーと呼ばれる最も北に位置した海上要塞で、ラフ・サンズという砂の堆積物の上に、大きな柱が二本ある巨大な構造物を沈め、海上の柱の上に居住区や対空砲台が建設されています。戦時中は150人から300人ものイギリス海軍兵員が常時駐留していたものの、戦後には不用になり要塞ごと放棄されました。
その後、1960年代、欧州では特に共産圏を中心にラジオ局が制限されていた事から自由に電波を飛ばせる場所として、イギリスの領海外であるマンセル要塞に海賊ラジオ業者が無断侵入して海賊放送をするようになりました。
1967年9月2日シーランド公国建国
初代シーランド大公パディ・ロイ・ベーツは、1921年にロンドンに生まれ、イギリス陸軍に入隊、第二次世界大戦では第8軍に所属し北アフリカ戦線、モンテ・カッシーノの戦いに従軍して少佐まで昇進し、戦後は陸軍を退役して猟師になりました。
1965年ベーツは、海上トーチカのマンセル要塞の1つ、「ノック・ジョン・タワー」を占拠していた海賊放送のスタッフを追い出して、残されていたアメリカ空軍のラジオビーコンを使用して海賊放送「ラジオ・エセックス」を開業します。
しかし、翌1966年10月に無線電信法違反で100ポンドの罰金支払い命令を受けた後に局名をBBMSに改名して営業を続けますが、資金不足により12月25日に放送を停止しました。
その後、ベーツはイギリス領海外にある「ラフス・タワー」に移動しますが、その後も放送は停止したままでした。
1967年8月14日にイギリスで海洋放送法が施行され、マンセル要塞からのラジオ放送が禁止されます。そこでベーツは海賊放送を続ける方便として、1967年9月2日、ラフス・タワーの独立を宣言しシーランド公国を建国したのです。こうしてみると、ベーツは海賊放送を続ける為にシーランド公国を建国したという事が出来そうです。
イギリスは法廷闘争で敗れ微妙な展開に
しかし、同じく海賊放送を続ける連中には、ロイ・ベーツのアイデアを横取りしようとする連中もいたようです。1968年海賊放送、ラジオキャロラインのローラン・オライリーがシーランド選挙を試み、それに対してベーツは火炎瓶と拳銃で応戦して阻止します。
ところが、この際に騒ぎを聞きつけたイギリス海軍に対し、息子のマイケル公太子がシーランドへの領海侵犯として警告射撃。公務執行妨害でベーツ父子は逮捕されました。シーランド公国の建国に対し、イギリス政府は強制的にロイ公殿下を立ち退かせようと裁判に訴えました。
しかし、1968年11月25日に出された判決では、シーランド公国がイギリスの領海外に存在し、またイギリスを含めて周辺諸国がラフス・タワーの所有を主張していない事を根拠に裁判所はイギリス司法の管轄外としたのです。
こうして、強制排除の手段が使えなくなったイギリスは黙認するしかなくなり、1975年にはシーランド公国は憲法・国旗・国歌を制定しました。
※イギリス司法はシーランド公国を認めたわけではなく、裁判の管轄外であり審議する事が出来ないとしただけで不法占拠状態違いはありませんが、ベーツはイギリスがシーランド公国を認めたと主張しています。
クーデターと再奪還
1978年、ロイ・ベーツ公は公国の資金源とする為にカジノ運営を計画し、西ドイツの投資家、アレクサンダー・アッヘンバッハを首相に任命します。しかし、アッヘンバッハ首相は野心が高い人物で、クーデターを起こしてシーランド公国の乗っ取りを企み、モーターボートやヘリコプターでシーランドを急襲。ベーツ公の息子で皇太子のマイケル・ベーツ公子を人質に取ってベーツ公を国外に追放しました。
ベーツ公も負けてはいません。陸軍時代の同志20名を募り、ヘリコプターを使用しての奪還作戦を決行、公国を奪い返します。これを契機にそれまで軍事力が無かったシーランドに騎士団が創設されました。
ロイ・ベーツ公は公国にいたオランダ人やドイツ人を国外退去にしますが、アッヘンバッハだけはパスポートを保有している自国民だとして国家反逆罪で投獄し、75000マルクの罰金を命じました。
これに対し西ドイツ政府は、イギリス政府にアッヘンバッハの即時解放を依頼しますが、イギリス政府は1968年の判決を理由に介入を拒否。やむなく西ドイツは駐ロンドン大使館の外交官をシーランド公国に派遣して解放交渉を開始します。
ロイ・ベーツ公は西ドイツから本物の外交官が来た事で公国が西ドイツに承認されたと有頂天になり、罰金問題を引っ込めてアッヘンバッハを解放します。西ドイツに戻ったアッヘンバッハ一味は、シーランド公国亡命政府を樹立し枢密院議長にアッヘンバッハを擁立して、シーランドの正統な権利を主張。
その後、1989年にアッヘンバッハ議長が健康上の理由から引退すると、ヨハネス・ザイガーが首相兼枢密院議長として後継者になりました。亡命政府は亡命政府で1990年には独自通貨の発行もしているようです。
【次のページに続きます】