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この記事の目次
両国から評価された黄権
黄権は魏で、最期を迎えるまで厚遇されました。しかし基本的にこの時代では、敵国に降った武将は厚遇された後に何らかの理由を付けられて処罰されることがあったのは事実です。その中でも黄権は魏で、そして元いた国であった蜀で、両方で信頼され、称賛され、そして天寿を全うしました。
陳寿は魏に降った将であるにも関わらず黄権を蜀書に名を残し「気高く大きな器量の持ち主で、見識に優れていた」と評価しています。
魏での厚遇はなぜ?蜀での評価はなぜ?
因みに黄権は降伏した人物でありながら皇帝の顧問官や鎮南将軍となり、後に益州刺史、車騎将軍、儀同三司となって三公待遇の扱いを受けています。そして没年は曹芳の代なので、ほぼ天寿を全うできたとみて良いでしょう。
ここまでどうして魏で厚遇されながら、蜀で評価されたのか?
それには魏で厚遇された理由の一つとして「魏に恩を感じながらも蜀に忠義を忘れなかった」「このことが魏の人々に深い感銘を与えた」ということがあると思います。どこか不思議なことに感じますが、彼は魏の人であり、蜀の忠臣だったのです。何よりもそれを評価されていたということを、彼が魏で厚遇されながら蜀書に列伝を遺された人物であったということが証明していると思います。
歴史を見てきた人
またもう一つ黄権の評価された面として、劉璋に仕えていたことも挙げられると筆者は考えています。劉璋に仕えていた、劉備に仕えることになった、その後は魏に降った。彼の生涯と言うのは一つの勢力の終焉を見届け、一つの勢力の立ち上がりを見てきた生涯でもあるのです。
こういう歴史をその目で見てきた人物と言うのは、当時としても重要な人物であったのではないでしょうか。また彼の息子・黄崇は蜀に残り、蜀の滅亡まで忠臣として蜀に尽くしました。そういう意味では陳寿としてはもしかしたら、黄権はあくまで蜀の人物!という評価をしたかったから蜀書で名を残したのでは……なんて考えてしまいます。
三国志ライター センのひとりごと
黄権の生涯は、振り返ると一つの勢力の滅亡、成り立ちを見守ってきた生涯でもあります。言わばそれ自身が生きた歴史書であり、証明書。それにも関わらず、どの勢力でも感謝と忠義を忘れなかった。そんな黄権の生涯はもっともっと知られて欲しいと思いましたね。
文:セン
参考文献:蜀書黄権伝
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