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藩が取り潰された!その時藩札は
藩札は、その正貨準備高が藩札全体の33%しかありませんし、実際にはそれを下回る事が普通にあったので、一度信用不安に陥ると、あっという間に取り付け騒ぎになります。それも、藩札発行額の多くても1/3しか正金がないので、払い戻し金額は1/3以下になるのが当たり前でした。
それでも引き換えられる藩はマシな方で、中には藩札の兌換を一方的に打ち切る藩もあり、怒りに燃える庶民により打ち壊しのような事件が起きています。
忠臣蔵のリーダーとしても有名な大石良雄が家老を務めた赤穂藩5万石は、元禄14年(1701年)浅野内匠頭による江戸城松の廊下の刃傷事件で改易、つまり取り潰しが決定しました。赤穂藩も延宝8年(1680年)から藩札を専一発行していたので、藩札が紙くずになる事を恐れた領内の商人が藩庁に殺到します。
取り潰しになる藩の藩札は、正直引き換えてもらえるだけで有難いレベルでしたが、大石良雄は塩の生産に支えられ裕福な赤穂藩の財政状況と、藩再興の夢を抱いていたので藩札を額面の6割で引き換えるという破格の高額を提示し、領民に感謝されたと言われています。忠臣蔵で知られる大石良雄は、当時の優秀な財務官僚でもあったのです。
日本史ライターkawausoの独り言
今回は、江戸時代のローカル通貨、藩札について解説してみました。この、江戸時代の兌換紙幣と言うシステムは金本位制として、世界では49年前の1971年の8月15日のドル危機の時まで維持されました。
その頃まで、世界各国は国内の金の保有量に合わせ通貨を発行していて、世界で一番大量の金を保有していたアメリカがドルを世界基軸通貨としていたのです。藩札と言うと古めかしいですが、それが兌換と言う経済システムを通して金本位制とリンクしていたというのは面白いですね。
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