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藩札とは?江戸時代に発行されたローカル紙幣の不思議


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藩札とは?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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藩が取り潰された!その時藩札は

安藤信正(幕末)

 

藩札は、その正貨準備高が藩札全体の33%しかありませんし、実際にはそれを下回る事が普通にあったので、一度信用不安に陥ると、あっという間に取り付け騒ぎになります。それも、藩札発行額の多くても1/3しか正金がないので、払い戻し金額は1/3以下になるのが当たり前でした。

 

それでも引き換えられる藩はマシな方で、中には藩札の兌換を一方的に打ち切る藩もあり、怒りに燃える庶民により打ち壊しのような事件が起きています。

一向一揆(農民)

 

忠臣蔵のリーダーとしても有名な大石良雄(おおいしよしお)が家老を務めた赤穂藩(あこうはん)5万石は、元禄14年(1701年)浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)による江戸城松の廊下の刃傷事件で改易、つまり取り潰しが決定しました。赤穂藩も延宝(えんぽう)8年(1680年)から藩札を専一発行していたので、藩札が紙くずになる事を恐れた領内の商人が藩庁に殺到します。

 

取り潰しになる藩の藩札は、正直引き換えてもらえるだけで有難いレベルでしたが、大石良雄は塩の生産に支えられ裕福な赤穂藩の財政状況と、藩再興の夢を抱いていたので藩札を額面の6割で引き換えるという破格の高額を提示し、領民に感謝されたと言われています。忠臣蔵で知られる大石良雄は、当時の優秀な財務官僚でもあったのです。

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は、江戸時代のローカル通貨、藩札について解説してみました。この、江戸時代の兌換紙幣と言うシステムは金本位制として、世界では49年前の1971年の8月15日のドル危機の時まで維持されました。

 

その頃まで、世界各国は国内の金の保有量に合わせ通貨を発行していて、世界で一番大量の金を保有していたアメリカがドルを世界基軸通貨としていたのです。藩札と言うと古めかしいですが、それが兌換と言う経済システムを通して金本位制とリンクしていたというのは面白いですね。

 

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激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末はじめての幕末

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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