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この記事の目次
高級娼婦として浮名を流すもスパイ容疑で逮捕銃殺
マタ・ハリはダンサーであると同時に多くの高級士官や政治家を相手とする高級娼婦でした。数知れないほど多数のフランス軍将校、あるいはドイツ軍将校とベッドを共にした彼女は必然的にスパイの仕事を持ちかけられるようになります。こうしてマタ・ハリは美しき女スパイとして活動するようになりました。
第一次世界大戦中の1917年2月、マタ・ハリはフランスにおいて二重スパイとして第一次世界大戦において多くのドイツ人、およびフランス人兵士を死に至らしめたとの容疑で、突如起訴されます。
この逮捕劇は、ドイツの在スペイン駐在武官がマタ・ハリを暗号名「H-21」なるドイツのスパイとした通信がフランスによって解読されたことからなされました。そして大戦中の1917年7月24日、彼女は起訴から5カ月で有罪となり死刑判決が下され、同年10月15日、サンラザール刑務所にて銃殺されたのです。
スケープゴートにされた3流スパイ
マタ・ハリは確かにフランス、あるいはドイツか両国の二重スパイでしたが、実際にもたらした情報は非常に低レベルで有益なモノはありませんでした。スパイとして教育を受けたわけではない彼女に高レベルな諜報活動はそもそも無理だったのです。
しかし、フランス軍にとってはマタ・ハリがドイツのスパイである事実だけで充分でした。
その頃、フランスの戦況は不利であり、政府は戦争による甚大な被害の責任の所在を追及されていたので、罪をなすりつける対象が欲しがっていました。ダンサーとして知名度があり、娼婦でもあったマタ・ハリは、フランス人将兵を死に追いやった卑劣な女スパイの役柄はピッタリだったのです。
こうして、マタ・ハリはでっち上げの架空のスパイ容疑で処刑され、皮肉にも、女スパイの代名詞として歴史に名前が残ってしまう事になりました。
世界史ライターkawausoの独り言
マタ・ハリの最期については、多くの説があります。
自分を射殺する兵士に投げキッスをしたとか、コート一枚を裸体に羽織って刑場に出てきてコートを脱ぎ捨て全裸で殺害されたとか、彼女の美しさに兵士が迷いを起こさないように、狙撃兵全員に目隠ししたとか、、いずれも、美貌の女スパイというイメージの上に上書きされたゴシップのようです。
また、これも噂ですが処刑を前にしてもマタ・ハリは泰然自若とし気付けのラム酒を一口含んだだけで毅然として殺されたというものもあります。
数奇な運命に翻弄され続けたマタ・ハリ、いや、マルガレータは41年の生涯の最後にどんな事を考えていたのでしょうか?
参考:Wikipedia マタ・ハリ
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