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マタ・ハリとはどんな人?美貌の女スパイの悲しい真実

2020年8月7日


 

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オランダ人の踊り子、マタ・ハリ

 

マタ・ハリは、フランスのパリを中心に活躍したオランダ人ダンサーでストリッパーです。同時に彼女は娼婦でもあり第一次世界大戦中に複数のフランス軍人、ドイツ軍人とベッドを共にし軍事機密を盗む女スパイでもありました。

 

今回は美貌(びぼう)の女スパイ、マタ・ハリの虚像と実像について解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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裕福な家に生まれるが父が石油投機で失敗し破産

 

マタ・ハリこと、マルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレは1876年8月7日オランダ・フリースラント州レーワルデンで、父アダム・ツェレと母、アンテェ・ファン・デル・ムーレンの間に4人兄弟の長女として産まれます。

 

東洋風の芸名とは裏腹にツェレ家にもムーレン家にも東洋系の血を引く先祖はいないようです。

 

ツェレ家は父のアダムが石油投資の成功と人気帽子店を経営していた事で贅沢な暮らしが出来るほどに裕福な家庭で、マルガレータも唯一の娘という事で父から溺愛され、何不自由ない生活を送り13歳までは上級学校に通えていました。

 

しかし、父アダムは石油株の投資に失敗、損失補填を借金で穴埋めすると、その借金は雪だるま式に膨らんでいき1889年破産。その後両親は離婚し、マルガレータを含め、子供達はそれぞれ別の親戚の元へ引き取られました。母のアンテェは1891年に死去、父はアムステルダムにて再婚しています。

 

19歳でオランダ軍将校と結婚

 

ツェレ家は一家離散し、マルガレータは自分の後見人のヘール・フィッセルを頼ってライデンに移住します。成長して経済的な自立に迫られた彼女は、ライデンで幼稚園の教諭になるために勉強しますが、学長と露骨に戯れるようになったマルガレータに気分を害したフィッセルにより施設から追われました。

 

それから数ヵ月後、彼女は叔父の家があるデン・ハーグに逃れます。マルガレータは19歳の時、新聞に掲載された結婚相手募集の広告に応募し21歳も年上のオランダ軍将校ルドルフ・ジョン・マクリード大尉と結婚します。

 

それは出会いから100日後というスピード結婚でした。

 

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性格の不一致で離婚

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マルガレータは、夫の仕事に伴い駐留先のボルネオ、スマトラ、ジャワへ移転し2児を儲けます。しかし、元々、生活に困っての結婚であり、若く派手好きなマルガレータの性格に夫のルドルフはついていけず、夫婦の気持ちはすれ違います。

 

ルドルフも女癖が悪く、また家庭内暴力もあったので夫婦仲はすぐに悪化していきました。

 

そんな折、息子が亡くなった事で二人の溝は決定的になり結婚7年目の1902年に離婚が成立、息子はルドルフが引き取ります。離婚したマルガレータはオランダに帰国し、間もなく職を求めてパリに渡りました。しかし、今とは比較にならない程に女性の職業選択の幅がなかった時代、望んでいる仕事は見つからず生活は困窮していきます。

 

見よう見まねのジャワダンスでデビュー

 

ある日、マルガレータは友人のパーティーの余興(よきょう)で見よう見まねのジャワ舞踏を披露します。すると、これが大ウケ、すぐにダンサーの話が持ちかけられました。

 

1905年マルガレータはエキゾチックな容姿を活かし、インドネシア・ジャワ島からやってきた王女、またはインド寺院の踊り巫女という触れ込みでダンサーとしてデビューします。

 

オリエンタル・スタイルの舞踊を演じた彼女の興行は大成功し、最初は小さなサロンで少人数の客を相手に踊りを披露するだけだったものが、噂は瞬く間に広がります。

 

かくして、興行場所は欧州全域に拡大、遂にはイタリアのミラノ・スカラ座で公演を果たすなど、一躍人気ダンサーになりました。この頃からマルガレータは、より観客に受けるように東洋的な「マタ・ハリ」の名前を名乗り始めます。マタ・ハリとは太陽、あるいは日の眼を意味するムラユ語、またはマレー語、インドネシア語であるそうです。

【次のページに続きます】

 

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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