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この記事の目次
トーリオの縄張りを受け継ぎ暗黒街の顔役へ
1925年、ジョニー・トーリオが敵に襲われて引退するとアルは縄張りを譲られ、26歳で組織のトップに君臨します。その後は禁酒法下で非合法になった酒の密売でのし上がりつつ、邪魔になるギャングやマフィアを次々と抹殺していきました。
さらに逮捕される事を防ぐ為に、ビッグ・ビル・トンプソンをはじめ、市議会議員、警察などを買収し勢力拡大と安泰化を図ります。1920年代のアル・カポネは影のシカゴ市長と言ってよい存在で、いかなる犯罪を犯して起訴されても、すべて証拠不十分で無罪になる万能の支配者でした。
1929年のカポネの非合法ビジネスの年間収益は、現在のドル換算で8億3000万ドルで日本円では888億円に上ります。
暗殺を極度に恐れたアルですが、一方で大変なジャズファンで、秘密の酒場や会員制クラブで黒人ジャズ・ミュージシャンに演奏させ、時には、有名なジャズ・ミュージシャンを拉致してまで演奏させた事もあったようです。
聖バレンタインデーの虐殺で刑務所に雲隠れ
このようなアル・カポネの振る舞いは、新聞や週刊誌に派手に書かれ、次第に悪目立ちするようになりました。
1929年2月14日、アルは部下のジャック・マクガーンの意見を容れてジョージ・バグズ・モラン一家の暗殺を1万ドルと諸経費で命じます。これにより、聖バレンタインデーの虐殺は実行されますが、マクガーンは5人の殺し屋を警察官に扮装させてパトカーに乗り、モラン一家のギャング4人と一般人3人も巻き添えにトンプソン機関銃でハチの巣にして殺害しました。
警察に扮装し、民間人まで巻き込んで殺害するという手の込んだ凶悪犯罪は全米でセンセーショナルな話題になります。アルは、事件当日、マイアミビーチにいたので関与は立証されませんでしたが、世間の目はアル・カポネに厳しくなりました。
何らかの対策を取る必要に迫られたアルは、同年5月、自作自演の拳銃不法所持で逮捕されます。もちろん刑務所には、アルの賄賂が十分行き渡り、高級ホテルと違わないVIP待遇でした。
こうして、アルは10カ月の間、刑務所から組織に指示を出し、世間から身を隠して世間の関心が自分から離れるのを見計らい出獄したのです。
偽善の慈善事業
アル・カポネは、悪事ばかりではなく、そこに少しの慈善事業を混ぜる事で世間のギャングに対する厳しい目を緩和できる事を知っていました。
1930年の暮れ、世界恐慌の最中のアメリカには失業者が溢れていましたが、アルは、シカゴのサウス・ステート・ストリート935番地の店で貧しい人たちに1日3度、無料給食を提供しました。
目論み通り、この事は新聞などで大きく報じられ、国民感情もアルに対して好意的になっていきます。アルは「無料給食を運営するには1カ月に1万ドルの経費がかかる」とこれみよがしに自慢しますが、実際には経費のほとんどはアルが出さず地元のパン屋、精肉業者、コーヒー豆屋にミカジメ料のように寄付させたものでアルの懐は痛みませんでした。
しかし、アル・カポネの黄金の20年代が過ぎ、30年代に入るとその栄光にも大きく陰りが生じます。
アル・カポネ脱税で有罪!懲役11年
フーバー政権下、財務長官アンドリュー・メロンの号令の下で所得税の脱税と国家禁酒法違反の両面からアル・カポネを追及しました。特に密造酒関係の調査をしたエリオット・ネスのチームは「アンタッチャブル」と呼ばれ世間の注目を集めますが、最終的には脱税をメインにカポネは告発を受けます。
1931年10月7日、アル・カポネの脱税裁判が開始、裁判ではかつてカポネ帝国の会計係だったフレッド・リースが証言台に立ち賭博場の事などを証言。結局アルは、合計11年の懲役と8万ドルの罰金という有罪判決を受けました。
実は、アルは陪審員のリストを事前に入手しており、1人につき千ドルで買収していて、罪は軽くなると高を括っていましたが、アルの一味のエドワード・J・オヘアが事前に密告したので開廷するや陪審員を入れ替えられてしまい、目論見が外れました。
どうせ罪は軽くなると考えたアルの弁護士も、積極的な弁護を怠り、アルは想像以上に重い刑をくらい収監される事になります。そして、この裁判を最後にアル・カポネがシカゴに戻ってくる事は二度とありませんでした。
アルカトラズ刑務所に収監、梅毒が進行する
1931年10月24日、アルはクック刑務所に入りますが、この刑務所ではアルは所長と職員を買収しレキシントン・ホテルに住んでいた頃と変わらない豪華な暮らしをし、そこからカポネ帝国を動かしていました。
アルは再審請求を繰り返しており、まだまだ意気軒高で、ここから裁判をやり直しムショ暮らしから舞い戻る考えだったようです。しかし、1932年5月2日最高裁は再審請求を棄却、これでアルの11年のムショ暮らしは確定、アルはかなり失望していたそうです。
次に収監されたアトランタ刑務所では無一文のアルは、32歳の肥満したイタリア人の中年男に過ぎませんでした。マスメディアを賑わせたシカゴの影の市長は、囚人のイジメの標的となり、随分と暴言を吐かれたそうですが、一方で面倒見のよいアルに世話された囚人もいてこの連中はアルを庇い味方になっていました。
ここでのアルの仕事は、靴工場での靴の修理で、毎日8時間電動ミシンで靴底を縫い合わせていましたが、元々真面目な性格なので怠けずにやっていたようです。
1932年8月22日、アルは、サンフランシスコ湾に浮かぶ監獄島、アルカトラズ刑務所に収監されます。警察はアルが部下に奪還されるのを恐れ、通常は列車から船に乗り換えて刑務所に移送される手続きを踏まず、アルが乗る客車をそのままはしけに載せて刑務所まで運び込びました。
アルカトラズでもアルは、風呂場の掃除係として従順に刑に服していて、他の囚人からwop with the mop(モップを持ったイタリア野郎)と呼ばれています。
ここではアルに暗黒街の顔役の面影はなく、刑務所内では模範的に振る舞い、週末には囚人仲間とバンジョーを演奏して楽しんでいました。しかし、アルカトラズでアルは、若い頃に罹患し治療しなかった梅毒が悪化し始めます。
行動が子供じみ、現実と妄想の区別がつかなくなったアルに、囚人仲間も看守もおかしいと気づきますが、「ムショ暮らしが長くなりイカレたんだろう」と気にも止めませんでした。
こうして病気が放置されている間に、アルの梅毒は進行し心身は耗弱。1938年の健康診断で初めて梅毒が発覚し、刑務所の医師は細菌を殺す手段としてマラリアを接種しますがほとんど効果はありませんでした。
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