アル・カポネとはどんな人?影の市長と呼ばれたギャングスター


 

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アメリカのギャング、アルカポネ

 

アル・カポネはイタリア系のアメリカ人ギャングです。

 

禁酒法時代のシカゴで高級ホテルを根城に密造酒販売、売春、賭博(とばく)、殺人あらゆる犯罪行為に手を染め組織化し莫大な利益を挙げ、政治家や新聞、警察まで買収し、一時は影のシカゴ市長とさえ言われました。

 

明らかに反社会的な人物ですが、一代で暗黒街の顔役にのし上がったカポネの人生は刺激的で危険な魅力に満ちギャングスターとして、多くの映画、ドラマ、小説の題材になりました。今回はそんな危険な男、アル・カポネの生涯を解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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イタリア移民の子としてニューヨークに誕生

 

アルフォンス・ガブリエル・カポネは、1899年、ニューヨークブルックリン区にイタリアのカンパニア州サレルノ県アングリ出身のイタリア系アメリカ人の家に9人兄弟の4男として誕生します。父のガブリエーレは理髪師で母のテレーザは裁縫婦の仕事をしていました。

 

少年時代のアルは、6年生まで成績優秀でしたが、その後は学校をサボりがちになり、7年生に進級する事に担任の女教師に生活態度を注意され、殴り合いの喧嘩をして以来、二度と学校には行きませんでした。

 

それからのアルは、洒落た服を着て遊びまわり、またビリヤードの名手で町のチャンピオンだったそうです。アルは無邪気で陽気な性格で酒も飲みませんでしたが、裏では、アドニス社交クラブという暴力の巣窟(そうくつ)のような店に出入りして銃の扱い方を覚え、イタリアン・マフィアのジョニー・トーリオと出会いました。

 

犯罪の世界に足を踏み入れるが結婚を機にカタギに

暗黒街の顔役になったアルカポネ

 

まだ駆け出しのチンピラの頃、アルは、トーリオの紹介でフランキー・イェールというギャングと知り合います。そして、イェールの店「ハーヴァード・イン」で皿洗いからウェイター、バーテンダー、用心棒となんでもこなし認められ本格的に暗黒街に入りました。

 

しかし、19歳の頃、アルはデパート・ガールをしていたメアリーに出会い、交際を開始、すぐに息子が誕生したので結婚します。するとアルは、メアリーと子供の為、一時ギャングから足を洗い、ボルチモアで建設会社の簿記係として就職しました。

 

その頃のアルは、毎日、スーツにネクタイのまじめな服装でピーター・アイエロの事務所に出勤していたそうで、人当たりが良い好青年だったそうです。

 

しかし、堅気の生活は2年と持たず、父親のガブリエーレが死んだ1920年頃に、結局、アルは暗黒街に舞い戻る決心をしました。アル・カポネは、ギャングらしからぬ真面目な仕事ぶりでアイエロの信頼を得ており、辞職を申し出るとアイエロは残念がり500ドルを餞別(せんべつ)に包んでアルに渡したそうです。

 

この恩義をアルは生涯忘れず、後に暗黒街の顔役になってから、シカゴにアイエロが来た時には、盛大な歓迎会を開き、シエロではパレードまでしたそうです。アルの義理堅い一面が分かる逸話ですね。

 

脱税の歴史

 

シカゴへ移転し暴力でのしあがる

 

1920年前後、アル・カポネはトーリオに呼ばれてシカゴへ行きます。この頃のアルは2件の殺人に手を染めて起訴されそうであり、また同業者のホワイト・ハンドを痛めつけたのでボスのワイルド・ビル・ロベットから命を狙われておりシカゴ行きは渡りに船でした。

 

シカゴでは、当初、ジム・コロシモの売春宿でポン引きのようなシケた仕事をしていましたが、この下積み時代に不正事業を組織化して反対派と和解するトーリオの手法を見習い暗黒街でのノウハウを積み上げていきました。

 

1年も経たないうちにアルは、トーリオの犯罪帝国で出世し、カジノ兼売春宿の支配人になり、雇われ人から相棒に昇格し年収は25000ドル近くになります。

 

青年実業家になったアルは、シカゴに自分名義で家を購入、ブルックリンから家族を呼び、さらには妻子だけでなく母や兄弟まで呼び寄せました。アルはイタリア人らしく、かなりの家族思いで、チンピラ時代には、5ドルなり10ドルなりを非合法な手段で稼ぐと、散財せずにそのまま母のテレーザに渡していたそうです。

 

非合法な手段とはいえ、実業家として成功したアルは、ブルックリンで貧しい暮らしをしている身内に楽をさせたかったんでしょうね。

 

最初の暗殺計画

 

アル・カポネはダイオン・オバニオンを暗殺した頃から、自分も暗殺されるのではないかという恐怖に駆られ警備を厳重にします。どこへ行くにも両脇にボディーガードを連れて歩き、外出は必ず自動車、自宅以外では1人になる事はありませんでした。

 

しかし、1925年1月12日、“ハイミー”ワイスと“スキーマー”ドルッチとジョージ・モランは、最初のカポネ暗殺を企て、アルの自動車に立ち塞がると、いきなりトンプソン式マシンガンをぶっ放しました。

 

その威力はボンネットが引き裂かれ、エンジンが壊れる程でしたが、幸いにアルは、車に乗ってなく難を逃れています。このような暗殺計画は何度もあり、すっかり警戒心が強くなったアルは、医者が敵に買収されるのを恐れて診療も拒否しました。

 

実はアルは、若い頃に梅毒に罹っていましたが、暗殺を恐れて治療を受けなかったので、晩年、刑務所に入ってから症状が悪化、痴呆(ちほう)の症状が出て病気が発覚し、治療を受けますが、すでに手遅れで回復しませんでした。

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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