
アル・カポネはイタリア系のアメリカ人ギャングです。
禁酒法時代のシカゴで高級ホテルを根城に密造酒販売、売春、賭博、殺人あらゆる犯罪行為に手を染め組織化し莫大な利益を挙げ、政治家や新聞、警察まで買収し、一時は影のシカゴ市長とさえ言われました。
明らかに反社会的な人物ですが、一代で暗黒街の顔役にのし上がったカポネの人生は刺激的で危険な魅力に満ちギャングスターとして、多くの映画、ドラマ、小説の題材になりました。今回はそんな危険な男、アル・カポネの生涯を解説します。
この記事の目次
イタリア移民の子としてニューヨークに誕生
アルフォンス・ガブリエル・カポネは、1899年、ニューヨークブルックリン区にイタリアのカンパニア州サレルノ県アングリ出身のイタリア系アメリカ人の家に9人兄弟の4男として誕生します。父のガブリエーレは理髪師で母のテレーザは裁縫婦の仕事をしていました。
少年時代のアルは、6年生まで成績優秀でしたが、その後は学校をサボりがちになり、7年生に進級する事に担任の女教師に生活態度を注意され、殴り合いの喧嘩をして以来、二度と学校には行きませんでした。
それからのアルは、洒落た服を着て遊びまわり、またビリヤードの名手で町のチャンピオンだったそうです。アルは無邪気で陽気な性格で酒も飲みませんでしたが、裏では、アドニス社交クラブという暴力の巣窟のような店に出入りして銃の扱い方を覚え、イタリアン・マフィアのジョニー・トーリオと出会いました。
犯罪の世界に足を踏み入れるが結婚を機にカタギに
まだ駆け出しのチンピラの頃、アルは、トーリオの紹介でフランキー・イェールというギャングと知り合います。そして、イェールの店「ハーヴァード・イン」で皿洗いからウェイター、バーテンダー、用心棒となんでもこなし認められ本格的に暗黒街に入りました。
しかし、19歳の頃、アルはデパート・ガールをしていたメアリーに出会い、交際を開始、すぐに息子が誕生したので結婚します。するとアルは、メアリーと子供の為、一時ギャングから足を洗い、ボルチモアで建設会社の簿記係として就職しました。
その頃のアルは、毎日、スーツにネクタイのまじめな服装でピーター・アイエロの事務所に出勤していたそうで、人当たりが良い好青年だったそうです。
しかし、堅気の生活は2年と持たず、父親のガブリエーレが死んだ1920年頃に、結局、アルは暗黒街に舞い戻る決心をしました。アル・カポネは、ギャングらしからぬ真面目な仕事ぶりでアイエロの信頼を得ており、辞職を申し出るとアイエロは残念がり500ドルを餞別に包んでアルに渡したそうです。
この恩義をアルは生涯忘れず、後に暗黒街の顔役になってから、シカゴにアイエロが来た時には、盛大な歓迎会を開き、シエロではパレードまでしたそうです。アルの義理堅い一面が分かる逸話ですね。
シカゴへ移転し暴力でのしあがる
1920年前後、アル・カポネはトーリオに呼ばれてシカゴへ行きます。この頃のアルは2件の殺人に手を染めて起訴されそうであり、また同業者のホワイト・ハンドを痛めつけたのでボスのワイルド・ビル・ロベットから命を狙われておりシカゴ行きは渡りに船でした。
シカゴでは、当初、ジム・コロシモの売春宿でポン引きのようなシケた仕事をしていましたが、この下積み時代に不正事業を組織化して反対派と和解するトーリオの手法を見習い暗黒街でのノウハウを積み上げていきました。
1年も経たないうちにアルは、トーリオの犯罪帝国で出世し、カジノ兼売春宿の支配人になり、雇われ人から相棒に昇格し年収は25000ドル近くになります。
青年実業家になったアルは、シカゴに自分名義で家を購入、ブルックリンから家族を呼び、さらには妻子だけでなく母や兄弟まで呼び寄せました。アルはイタリア人らしく、かなりの家族思いで、チンピラ時代には、5ドルなり10ドルなりを非合法な手段で稼ぐと、散財せずにそのまま母のテレーザに渡していたそうです。
非合法な手段とはいえ、実業家として成功したアルは、ブルックリンで貧しい暮らしをしている身内に楽をさせたかったんでしょうね。
最初の暗殺計画
アル・カポネはダイオン・オバニオンを暗殺した頃から、自分も暗殺されるのではないかという恐怖に駆られ警備を厳重にします。どこへ行くにも両脇にボディーガードを連れて歩き、外出は必ず自動車、自宅以外では1人になる事はありませんでした。
しかし、1925年1月12日、“ハイミー”ワイスと“スキーマー”ドルッチとジョージ・モランは、最初のカポネ暗殺を企て、アルの自動車に立ち塞がると、いきなりトンプソン式マシンガンをぶっ放しました。
その威力はボンネットが引き裂かれ、エンジンが壊れる程でしたが、幸いにアルは、車に乗ってなく難を逃れています。このような暗殺計画は何度もあり、すっかり警戒心が強くなったアルは、医者が敵に買収されるのを恐れて診療も拒否しました。
実はアルは、若い頃に梅毒に罹っていましたが、暗殺を恐れて治療を受けなかったので、晩年、刑務所に入ってから症状が悪化、痴呆の症状が出て病気が発覚し、治療を受けますが、すでに手遅れで回復しませんでした。
トーリオの縄張りを受け継ぎ暗黒街の顔役へ
1925年、ジョニー・トーリオが敵に襲われて引退するとアルは縄張りを譲られ、26歳で組織のトップに君臨します。その後は禁酒法下で非合法になった酒の密売でのし上がりつつ、邪魔になるギャングやマフィアを次々と抹殺していきました。
さらに逮捕される事を防ぐ為に、ビッグ・ビル・トンプソンをはじめ、市議会議員、警察などを買収し勢力拡大と安泰化を図ります。1920年代のアル・カポネは影のシカゴ市長と言ってよい存在で、いかなる犯罪を犯して起訴されても、すべて証拠不十分で無罪になる万能の支配者でした。
1929年のカポネの非合法ビジネスの年間収益は、現在のドル換算で8億3000万ドルで日本円では888億円に上ります。
暗殺を極度に恐れたアルですが、一方で大変なジャズファンで、秘密の酒場や会員制クラブで黒人ジャズ・ミュージシャンに演奏させ、時には、有名なジャズ・ミュージシャンを拉致してまで演奏させた事もあったようです。
聖バレンタインデーの虐殺で刑務所に雲隠れ
このようなアル・カポネの振る舞いは、新聞や週刊誌に派手に書かれ、次第に悪目立ちするようになりました。
1929年2月14日、アルは部下のジャック・マクガーンの意見を容れてジョージ・バグズ・モラン一家の暗殺を1万ドルと諸経費で命じます。これにより、聖バレンタインデーの虐殺は実行されますが、マクガーンは5人の殺し屋を警察官に扮装させてパトカーに乗り、モラン一家のギャング4人と一般人3人も巻き添えにトンプソン機関銃でハチの巣にして殺害しました。
警察に扮装し、民間人まで巻き込んで殺害するという手の込んだ凶悪犯罪は全米でセンセーショナルな話題になります。アルは、事件当日、マイアミビーチにいたので関与は立証されませんでしたが、世間の目はアル・カポネに厳しくなりました。
何らかの対策を取る必要に迫られたアルは、同年5月、自作自演の拳銃不法所持で逮捕されます。もちろん刑務所には、アルの賄賂が十分行き渡り、高級ホテルと違わないVIP待遇でした。
こうして、アルは10カ月の間、刑務所から組織に指示を出し、世間から身を隠して世間の関心が自分から離れるのを見計らい出獄したのです。
偽善の慈善事業
アル・カポネは、悪事ばかりではなく、そこに少しの慈善事業を混ぜる事で世間のギャングに対する厳しい目を緩和できる事を知っていました。
1930年の暮れ、世界恐慌の最中のアメリカには失業者が溢れていましたが、アルは、シカゴのサウス・ステート・ストリート935番地の店で貧しい人たちに1日3度、無料給食を提供しました。
目論み通り、この事は新聞などで大きく報じられ、国民感情もアルに対して好意的になっていきます。アルは「無料給食を運営するには1カ月に1万ドルの経費がかかる」とこれみよがしに自慢しますが、実際には経費のほとんどはアルが出さず地元のパン屋、精肉業者、コーヒー豆屋にミカジメ料のように寄付させたものでアルの懐は痛みませんでした。
しかし、アル・カポネの黄金の20年代が過ぎ、30年代に入るとその栄光にも大きく陰りが生じます。
アル・カポネ脱税で有罪!懲役11年
フーバー政権下、財務長官アンドリュー・メロンの号令の下で所得税の脱税と国家禁酒法違反の両面からアル・カポネを追及しました。特に密造酒関係の調査をしたエリオット・ネスのチームは「アンタッチャブル」と呼ばれ世間の注目を集めますが、最終的には脱税をメインにカポネは告発を受けます。
1931年10月7日、アル・カポネの脱税裁判が開始、裁判ではかつてカポネ帝国の会計係だったフレッド・リースが証言台に立ち賭博場の事などを証言。結局アルは、合計11年の懲役と8万ドルの罰金という有罪判決を受けました。
実は、アルは陪審員のリストを事前に入手しており、1人につき千ドルで買収していて、罪は軽くなると高を括っていましたが、アルの一味のエドワード・J・オヘアが事前に密告したので開廷するや陪審員を入れ替えられてしまい、目論見が外れました。
どうせ罪は軽くなると考えたアルの弁護士も、積極的な弁護を怠り、アルは想像以上に重い刑をくらい収監される事になります。そして、この裁判を最後にアル・カポネがシカゴに戻ってくる事は二度とありませんでした。
アルカトラズ刑務所に収監、梅毒が進行する
1931年10月24日、アルはクック刑務所に入りますが、この刑務所ではアルは所長と職員を買収しレキシントン・ホテルに住んでいた頃と変わらない豪華な暮らしをし、そこからカポネ帝国を動かしていました。
アルは再審請求を繰り返しており、まだまだ意気軒高で、ここから裁判をやり直しムショ暮らしから舞い戻る考えだったようです。しかし、1932年5月2日最高裁は再審請求を棄却、これでアルの11年のムショ暮らしは確定、アルはかなり失望していたそうです。
次に収監されたアトランタ刑務所では無一文のアルは、32歳の肥満したイタリア人の中年男に過ぎませんでした。マスメディアを賑わせたシカゴの影の市長は、囚人のイジメの標的となり、随分と暴言を吐かれたそうですが、一方で面倒見のよいアルに世話された囚人もいてこの連中はアルを庇い味方になっていました。
ここでのアルの仕事は、靴工場での靴の修理で、毎日8時間電動ミシンで靴底を縫い合わせていましたが、元々真面目な性格なので怠けずにやっていたようです。
1932年8月22日、アルは、サンフランシスコ湾に浮かぶ監獄島、アルカトラズ刑務所に収監されます。警察はアルが部下に奪還されるのを恐れ、通常は列車から船に乗り換えて刑務所に移送される手続きを踏まず、アルが乗る客車をそのままはしけに載せて刑務所まで運び込びました。
アルカトラズでもアルは、風呂場の掃除係として従順に刑に服していて、他の囚人からwop with the mop(モップを持ったイタリア野郎)と呼ばれています。
ここではアルに暗黒街の顔役の面影はなく、刑務所内では模範的に振る舞い、週末には囚人仲間とバンジョーを演奏して楽しんでいました。しかし、アルカトラズでアルは、若い頃に罹患し治療しなかった梅毒が悪化し始めます。
行動が子供じみ、現実と妄想の区別がつかなくなったアルに、囚人仲間も看守もおかしいと気づきますが、「ムショ暮らしが長くなりイカレたんだろう」と気にも止めませんでした。
こうして病気が放置されている間に、アルの梅毒は進行し心身は耗弱。1938年の健康診断で初めて梅毒が発覚し、刑務所の医師は細菌を殺す手段としてマラリアを接種しますがほとんど効果はありませんでした。
フロリダの自宅で肺炎により死亡
1939年11月26日、刑期をやや短縮してアルは釈放されますが、クック刑務所に入る時の身なりの立派な自信家の面影はなく、40歳の実年齢よりずっと老けて見えました。
刑務所を出たアルは、ボルチモアのユニオン記念病院で梅毒の治療後、フロリダのパーム・アイランド島にある家で生活し余生を過ごします。
この頃、アルの家には暗黒街から人間が訪ねてきてアルと雑談したり、他の兄弟と商談したそうです。1947年1月25日、アルは脳卒中に伴う肺炎で死亡48歳でした。
アル・カポネ年表
1899年:ニューヨークブルックリンにイタリア移民の子として誕生。6年生まではマジメだったが7年生から性格が荒れ、学校に行かなくなり、裏社会に出入りするようになる。
1920年:ボス、ジョニー・トーリオに誘われシカゴに行き売春宿などのポン引き(客の呼び込み)をしつつ裏社会のノウハウを積む。
1921年頃:トーリオの賭博場及び売春宿の支配人になり、シカゴに家を買い家族と身内を呼び寄せる。
1925年:ジョージ・モラン一味に機関銃で自動車を襲撃されるが運よく車に乗っておらず難を逃れる。同年、ボス、トーリオの引退を受け暗黒街の顔役となる。
1929年:聖バレンタインデーの虐殺に関与したとしてマスコミに叩かれ、自作自演の拳銃不法所持で刑務所に10カ月服役。ほとぼりが冷めてから出獄。
1930年:人気取りの為にシカゴサウス・ステートストリートで貧困者に無料給食を始める。
1931年:所得税脱税等で有罪判決を受け懲役11年、再審請求も棄却され刑務所に収監される。
1932年:絶海の監獄島アルカトラズに収監、囚人番号は#Az-85号
1936年:若い頃に罹患した梅毒が悪化し、痴呆の症状が出るが治療は受けられず病状が進行。
1939年:11月に刑期短縮で釈放されるが、梅毒の進行で、過去の暗黒街の顔役の面影はなかった。
1947年:1月15日、脳卒中に伴う肺炎で死亡、48歳。
世界史ライターkawausoの独り言
全盛期のアル・カポネは、カジノを300軒、ソープランドを3000軒、もぐりの酒場2万軒の大半を支配し、命令1つで機関銃を持って誰でも殺す殺し屋を700名も抱えていました。
カポネは生涯に450件の殺人に関与し、40人の殺人に自ら手を下しながら、用心深くアリバイをつくり、毎回警察の追及を逃れる奸智に長けていました。
死刑にならずに余生を送れたのが不思議なくらいの悪党だったのです。個人としてのアルは、家族思いで義理堅く、部下の面倒見が良いなど世間受けする好人物な面を見せましたが、その実態は450件の殺人に関与し、自分の利益の為に他人を平気で殺す冷酷な犯罪者であった事実を忘れてはいけません。
参考記事:Wikipedia
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