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この記事の目次
フロリダの自宅で肺炎により死亡
1939年11月26日、刑期をやや短縮してアルは釈放されますが、クック刑務所に入る時の身なりの立派な自信家の面影はなく、40歳の実年齢よりずっと老けて見えました。
刑務所を出たアルは、ボルチモアのユニオン記念病院で梅毒の治療後、フロリダのパーム・アイランド島にある家で生活し余生を過ごします。
この頃、アルの家には暗黒街から人間が訪ねてきてアルと雑談したり、他の兄弟と商談したそうです。1947年1月25日、アルは脳卒中に伴う肺炎で死亡48歳でした。
アル・カポネ年表
1899年:ニューヨークブルックリンにイタリア移民の子として誕生。6年生まではマジメだったが7年生から性格が荒れ、学校に行かなくなり、裏社会に出入りするようになる。
1920年:ボス、ジョニー・トーリオに誘われシカゴに行き売春宿などのポン引き(客の呼び込み)をしつつ裏社会のノウハウを積む。
1921年頃:トーリオの賭博場及び売春宿の支配人になり、シカゴに家を買い家族と身内を呼び寄せる。
1925年:ジョージ・モラン一味に機関銃で自動車を襲撃されるが運よく車に乗っておらず難を逃れる。同年、ボス、トーリオの引退を受け暗黒街の顔役となる。
1929年:聖バレンタインデーの虐殺に関与したとしてマスコミに叩かれ、自作自演の拳銃不法所持で刑務所に10カ月服役。ほとぼりが冷めてから出獄。
1930年:人気取りの為にシカゴサウス・ステートストリートで貧困者に無料給食を始める。
1931年:所得税脱税等で有罪判決を受け懲役11年、再審請求も棄却され刑務所に収監される。
1932年:絶海の監獄島アルカトラズに収監、囚人番号は#Az-85号
1936年:若い頃に罹患した梅毒が悪化し、痴呆の症状が出るが治療は受けられず病状が進行。
1939年:11月に刑期短縮で釈放されるが、梅毒の進行で、過去の暗黒街の顔役の面影はなかった。
1947年:1月15日、脳卒中に伴う肺炎で死亡、48歳。
世界史ライターkawausoの独り言
全盛期のアル・カポネは、カジノを300軒、ソープランドを3000軒、もぐりの酒場2万軒の大半を支配し、命令1つで機関銃を持って誰でも殺す殺し屋を700名も抱えていました。
カポネは生涯に450件の殺人に関与し、40人の殺人に自ら手を下しながら、用心深くアリバイをつくり、毎回警察の追及を逃れる奸智に長けていました。
死刑にならずに余生を送れたのが不思議なくらいの悪党だったのです。個人としてのアルは、家族思いで義理堅く、部下の面倒見が良いなど世間受けする好人物な面を見せましたが、その実態は450件の殺人に関与し、自分の利益の為に他人を平気で殺す冷酷な犯罪者であった事実を忘れてはいけません。
参考記事:Wikipedia
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