こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
保元・平治の乱に勝利し平清盛がのしあがる
忠盛の死後、伊勢平氏は平清盛が継ぎ、保元の乱では後白河天皇と藤原忠通につき摂関家の藤原頼長を追い落とし、平治の乱では、河内源氏の源義朝を追い落とし伊勢平氏を武家の頂点に導きます。
この2つの兵乱は、どちらの勢力も武士の軍事力をアテにして行われたので、武士の存在感が飛躍的に強まります。それでも保元の乱後には、河内源氏の源義朝がいましたが、平治の乱後に源義朝が清盛に敗れ去ると、圧倒的な武力を持つ存在は平氏しかいなくなり、朝廷も貴族も武力の均衡を保つ事が出来なくなり、清盛の発言力が無視できない程に強まります。
かくして清盛は、武士で最初の公卿に昇進、太政大臣に上り、高倉天皇と摂政藤原基実を婿とし安徳天皇を即位させて外戚となり、伊勢平氏一門を悉く引き立てて、伊勢平氏の黄金時代を築いたのです。
日本史ライターkawausoの独り言
平清盛については、白河法皇の御落胤だから出世したのだと血筋の事が引合いに出されますが、天皇の子でも没落する事がある平安末期においては、御落胤というだけで成りあがれるような甘いモノではありませんでした。
清盛個人の努力や運命が味方した事に加え、時流を読んで摂関家より白河天皇を選んだ祖父の正盛や、軍事力と財力で白河上皇、鳥羽上皇に奉仕した父、忠盛の力がないと清盛だけではいかに有能でも、位人臣を極めるのは難しかったでしょう。
もう一つ大事なのは、伊勢平氏は河内源氏のような内輪もめが少なく、いつでも一枚岩だった事も成功の一因ですね。
参考文献:歴史人、日本史の謎100kk ベストセラーズ