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この記事の目次
キングダム雑学「秦は三晋攻略に一番時を費やした」
秦の統一過程は、紀元前317年益州に巴郡を置いたのを皮切りに、紀元前290年に河東郡を置きますが、その後はそこから東に行く事なく、東南方に転じて楚を攻略し、紀元前278年に南郡、紀元前273年に南陽郡を置くなど、三晋を避けて迂回した戦略を取ります。
その後紀元前271年に北地郡を置きますが、そこから紀元前250年まで長期にわたり安定した置県は行えていません。
ようやく紀元前240年代に入り、積極的に魏や韓の領地を併呑して東郡や南郡を置いていくわけですが、三晋の最後の一角魏を滅ぼすまで25年を費やしています。
ところがそこから、5年間で秦は燕、楚、斉を滅ぼし16もの郡を設置して統一を完了しています。
これは、単純に秦が諸国を併呑するなかで強大化しただけではなく、つまり秦に取っては三晋こそが打倒するのに92年も掛かった強敵であり、それに比較すると都市が小さく王の支配力が強い、斉や燕や楚は、大した問題ではなかったと言えるのかも知れません。
キングダム雑学「呂不韋」
三晋都市に対して強硬な支配を進め猛反発を受けた秦ですが、紀元前240年代になると、三晋の都市に食い込めるようになります。そのカギは大商人の出身で秦の丞相になった呂不韋なのだそうです。
つまり、商人あがりの呂不韋はそれまでの上から押し付けるような秦のやり方が三晋の都市の反発を招く事を考え、都市に一定の自治権を与えて秦に対するアレルギーを緩和した可能性があります。
しかし、呂不韋の失脚後、秦は元の全体主義の強権体制に戻っていったようです。
キングダムでは戦争まるでダメ男だった呂不韋ですが、案外に三晋地域の統治を円滑に進めるのに才能を見せた人だったのかも知れません。
キングダム(春秋戦国時代)ライターkawausoの独り言
キングダムでは、秦の最強の敵は楚に設定されると思いますが、長い目で見ると、秦を激しく拒否したのは独立志向が強くて干渉を嫌った三晋だったのでしょう。
それは、魏の滅亡後、秦が、楚、燕、斉を滅ぼすのに5年間しか掛からなかった事でも分かります。
参考PDF:戰國時代の都市とその支配 江村治樹
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