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キングダム休載雑学2「秦の最強の敵は楚ではなく三晋だった」


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秦の最強の敵は楚ではなく三晋(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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キングダム雑学「秦は三晋攻略に一番時を費やした」

行軍する兵士達a(モブ)

 

秦の統一過程は、紀元前317年益州に巴郡(はぐん)を置いたのを皮切りに、紀元前290年に河東郡(かとうぐん)を置きますが、その後はそこから東に行く事なく、東南方に転じて楚を攻略し、紀元前278年に南郡、紀元前273年に南陽郡を置くなど、三晋を避けて迂回した戦略を取ります。

 

その後紀元前271年に北地郡を置きますが、そこから紀元前250年まで長期にわたり安定した置県は行えていません。

ようやく紀元前240年代に入り、積極的に魏や韓の領地を併呑して東郡や南郡を置いていくわけですが、三晋の最後の一角魏を滅ぼすまで25年を費やしています。

嬴政(始皇帝)

 

ところがそこから、5年間で秦は、斉を滅ぼし16もの郡を設置して統一を完了しています。

これは、単純に秦が諸国を併呑するなかで強大化しただけではなく、つまり秦に取っては三晋こそが打倒するのに92年も掛かった強敵であり、それに比較すると都市が小さく王の支配力が強い、斉や燕や楚は、大した問題ではなかったと言えるのかも知れません。

 

キングダム雑学「呂不韋」

呂不韋

 

三晋都市に対して強硬な支配を進め猛反発を受けた秦ですが、紀元前240年代になると、三晋の都市に食い込めるようになります。そのカギは大商人の出身で秦の丞相になった呂不韋なのだそうです。

つまり、商人あがりの呂不韋はそれまでの上から押し付けるような秦のやり方が三晋の都市の反発を招く事を考え、都市に一定の自治権を与えて秦に対するアレルギーを緩和した可能性があります。

 

しかし、呂不韋の失脚後、秦は元の全体主義の強権体制に戻っていったようです。

キングダムでは戦争まるでダメ男だった呂不韋ですが、案外に三晋地域の統治を円滑に進めるのに才能を見せた人だったのかも知れません。

 

キングダム(春秋戦国時代)ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

キングダムでは、秦の最強の敵は楚に設定されると思いますが、長い目で見ると、秦を激しく拒否したのは独立志向が強くて干渉を嫌った三晋だったのでしょう。

それは、魏の滅亡後、秦が、楚、燕、斉を滅ぼすのに5年間しか掛からなかった事でも分かります。

参考PDF:戰國時代の都市とその支配 江村治樹

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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