シモ・ヘイヘとはどんな人?射殺人数世界一のスナイパー


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シモ・ヘイヘとはどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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4秒に1発、1分間に16発命中させる腕前

 

狙撃においてヘイヘは、フィンランドが独立後、旧宗主国のロシア帝国が開発したモシン・ナガンM1891を土台に改良したモシン・ナガンM28を使用。身長152㎝と小柄なヘイヘは、120㎝もの長さがある、この銃を手足のように自由に扱ったそうです。

 

モシン・ナガンには、3.5倍から4倍の倍率を持つスコープを装着できましたが、ヘイヘはスコープを使わず、銃身についた鉄製の照星と照門のみで狙撃しました。

 

これは銃の軽量化と頭をより低くする事、そしてスコープの光反射で敵に狙撃位置を悟られるのを嫌ったためのようです。ヘイヘは連続的な射撃と精度を両立し狙撃訓練課程では、150mから1分間に16発の命中に成功していましたし、モシン・ナガンは5発装填なので、間には3回弾丸を込めるアクションも必要でした。

 

実戦では、300m圏内(けんない)の敵兵なら百発百中、なかには450m離れて命中させたケースもあり、計算すると、4秒に1発は命中させている計算で、狙われれば助からなかったでしょうね。

 

1人ガンダムだったシモ・ヘイヘ

 

シモ・ヘイヘの公式確認戦果は542名ですが、この中には狙撃銃以外の火器による殺害数は含まれません。ヘイヘはサブマシンガンの名手でもあり、殺戮(さつりく)の丘戦闘では、kp31サブマシンガンを用いて記録では200人以上、非公式なものを含めれば狙撃で殺害した兵士より多くの兵士を殺害しています。

 

これらのヘイヘの記録は、戦争開始から負傷するまでの100日間に残され、1939年のクリスマス直前の12月21日だけで25人の赤軍兵士を殺害しクリスマスの夜には、通算殺害者数が138人に達したそうです。いかに近代とはいえ、1人で1000人以上を殺害した兵士なんて、そうそういないでしょう。シモ・ヘイヘは、冬戦争のリアルガンダムでしょうね。

 

ソ連兵に狙撃され瀕死の重傷を負う

 

ソ連は、ヘイヘを重大な脅威と認め、これを殺害すべく大砲による攻撃やカウンタースナイパーの配置を命じます。そして終戦1週間前の1940年3月6日に起きた戦争で、赤軍兵士の銃撃により顎を撃ち抜かれる重傷を負いました。

 

意識不明で救助されたヘイヘは、頭の半分がなくなる程の重傷を負い、コッラーの仲間にはヘイヘの戦死が伝えられ病院で葬式までされましたが、実は一命をとりとめていた事が葬式の最中に伝えられたそうです。

 

ヘイヘは戦傷から1週間後の3月13日に意識を回復したものの、その時にはモスクワで講和条約が結ばれ冬戦争は終わっていました。愛国心溢れるヘイヘは、その後の継続戦争へも従軍を希望しますが、度重なる手術のために従軍は叶いませんでした。もし従軍していれば、軽く千人は射殺していたかも知れません。また、写真でも分かるようにヘイヘの顎には生涯消えない傷跡が残りました。

 

戦後のシモ・ヘイヘは戦中の功績で兵長から少尉に5階級特進しますが、以後は戦線を退き、猟師と猟犬のブリーダーとして静かな半生を送り、2002年に96歳で人生の幕を下ろしています。

 

シモ・ヘイヘ年表

 

1905年:フィンランド、ラウトヤルヴィで誕生。

1925年:民兵組織「白衛軍」に加入し、射撃大会で度々優勝、同年15カ月の兵役義務でフィンランド国防陸軍入隊。

1926年:兵長でフィンランド国防陸軍を除隊となり予備役に編入され、民間防衛隊に入隊。

1939年:冬戦争で召集、フィンランド国防陸軍歩兵第12師団第34連隊第6中隊に配属され、スナイパーとしてコッラー川の周辺で防衛任務に就く。

1940年:冬戦争終戦一週間前にソビエト狙撃兵に顎を砕かれ瀕死の重傷を負うが回復。

1944年:第一級自由十字褒章とコッラー十字章を受勲。兵長から少尉へと5階級特進。以後は戦場を退き猟師と猟犬の繁殖家として過ごす。

2002年:4月1日、ルオコラハティにて96歳で死去

 

世界史ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

シモ・ヘイヘは万事控えめな性格で、指定されない限り、写真でも他人の影に隠れがちでした。1998年に狙撃の秘訣を聞かれたヘイヘは、ただ一言、狙「習熟だ」と答えています。

 

また、仕事とはいえ、多くの人間の命を奪ったことについて後悔の念はないかと問われると、「やれと言われたことを、可能なかぎり実行したまでだ」と述べています。

 

参考:Wikipedia

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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