宮刑とは?罪人か成功者か?二つの顔を持つ刑罰


 

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強引に法律の改革を行う商鞅(しょうおう)

 

宮刑(きゅうけい)とは男性のシンボルを切除してしまう刑罰の事です。

 

亀甲船(朝鮮水軍)

 

中国の宦官が特に有名ですが、実際には世界中に存在し朝鮮半島、ベトナム、古代オリエントでは、古代ペルシャ帝国、古代エジプト、ギリシャ、ローマ、さらにイスラム諸国からアフリカまで広範囲に広がっています。

 

では、そんな宮刑はどんな社会背景から生まれてきた刑罰なのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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子孫を絶やす死刑に次ぐ極刑

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

宮刑がどのように発生したかは分かっていませんが、恐らくは氏族間の抗争の中で原型が出来たとkawausoは考えています。

 

逃亡兵の妻子(女性)に処罰を加える法律

 

中国は伝統的に氏族国家で宗家を中心として氏族が団結して、他氏と抗争する形で統一国家が形成されたので、勝つためには相手の血脈を絶やすのが復讐を阻止する最良の方法でした。

 

炎上する城a(モブ)

 

しかし、戦争に勝利して得た奴隷でもある氏族を、全て殺してしまうと大損してしまうので、男子については子供を為せないように男性器を切除する方法が考案されたのだと考えられます。こうして不能にすれば、二度と再び滅ぼした氏族が甦る事はないからです。

 

こうして、得た奴隷を神殿などの雑用に使ったのが元々だったのでしょう。

 

後宮の管理人として宮刑に需要が生まれる

洛陽城

 

ところが、中国に封建国家が誕生し、国の規模が大きくなると宮刑に処せられた宦官には別の役割が求められるようになります。すなわち王が保有するハーレムの管理人です。

 

性的に不能な宦官なら、後宮の美女との間に間違いが起きる事もなく、後宮で生まれる子供は全て王の子供であるという証明になったからでした。

 

中国の歴史では、春秋時代、斉の桓公(かんこう)に仕えた豎刁 (じゅちょう)が自ら宮刑を受けて去勢し、王のハーレムの管理人を願い出て桓公の信頼を得、桓公死後に権勢を振るいました。

 

宦官の趙高(キングダム)

 

また、中国史上最悪の宦官とも呼ばれる趙高(ちょうこう)は、身内の罪に連座して秦で宮刑を受けますが、元々法律の知識に詳しかったので始皇帝に重用されるようになり、始皇帝死後には2世皇帝を操り、強大な権力を振るって秦を滅亡に追い込んでいます。

 

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

それに宦官は後継ぎがいませんから、厚遇しても死んだらその財産は国に没収されます。この気安さから洋の東西を問わず権力者は宦官を寵愛するようになっていました。

 

宦官の趙高

 

このように刑罰だった宮刑ですが、豎刁や趙高のような成功例?が広まると、自ら去勢して宦官になり栄耀栄華(えいようえいが)を極めたいと考える貧しい男性が出現し、一種のチャイニーズドリームの受け皿になっていくのです。

 

楚漢戦争

 

明・清時代は大宦官時代

十常侍(宦官)

 

宮刑は残酷な刑罰である事から、何度か廃止されたり復活したりしますが、明の時代になると復活します。しかし、宮刑はほとんど必要なかったようです。その理由は、自ら去勢して宦官になろうという志願者が大量にいた為でした。

 

張譲(宦官)

 

明王朝も宦官天国と呼べるほどに大量の宦官を必要とし皇明実録によればその数は10万人に上りました。明末期には、宦官の補欠を3000名募集したところ、2万人も自宮(自分で去勢する事)した人々が殺到。多くが採用されなかったので、自棄(やけ)になって犯罪者になる者が続出したので、宮廷は1500名も補欠を増員したと言われています。

 

宦官たち 

 

次の清の時代には、再び宮刑が廃止されますが、やはり貧しさから逃れようと自宮する男性は後を絶たず、当人の希望ばかりか、貧しい親が子供を去勢して宦官とし宮廷に送り出す事さえありました。

 

超痛い!自宮手術

病気になった兵士

 

元々は宦官希望者が自分でおこなっていた去勢手術ですが、清末期には、低級の官吏である七品官の畢五家(ひつごけ)小刀劉(しょうとうりゅう)の2家が政府公認の小廠(しょうしょう)を開き、ここで刀子匠(とうじしょう)が去勢手術を請け負うようになりました。

 

華陀

 

その手術の手順を見てみると、裸にした自宮希望者をオンドルの上に座らせ、睾丸(こうがん)の根本を紐でしばり強制的に勃起させます。次に、刀子匠の弟子に身体を押さえつけさせてから、刀子匠がやや反り返った形状の刃物で睾丸と陰茎(いんけい)を一気に切り落としました。

 

華佗(華陀)

 

手術は麻酔なしという乱暴なもので、術後は熱した灰を患部に塗り付けて出血を止め、尿道に金属の栓をして尿道が自然に塞がる事を阻止します。傷口は縫合もされず紙で包まれるだけで、手術から3日後に尿道の栓を抜くまで水を飲む事も禁止で、患者は傷が癒え起き上がれるようになるまで、2カ月もかかったそうです。

 

朝まで三国志2017表情 kawausoさん03 怒

 

こんな乱暴な手術なのに、手術の成功率は99%で、ほとんどは死ぬ事はなかったと書かれています。ホントですかね?

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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