宮刑とは男性のシンボルを切除してしまう刑罰の事です。
中国の宦官が特に有名ですが、実際には世界中に存在し朝鮮半島、ベトナム、古代オリエントでは、古代ペルシャ帝国、古代エジプト、ギリシャ、ローマ、さらにイスラム諸国からアフリカまで広範囲に広がっています。
では、そんな宮刑はどんな社会背景から生まれてきた刑罰なのでしょうか?
この記事の目次
子孫を絶やす死刑に次ぐ極刑
宮刑がどのように発生したかは分かっていませんが、恐らくは氏族間の抗争の中で原型が出来たとkawausoは考えています。
中国は伝統的に氏族国家で宗家を中心として氏族が団結して、他氏と抗争する形で統一国家が形成されたので、勝つためには相手の血脈を絶やすのが復讐を阻止する最良の方法でした。
しかし、戦争に勝利して得た奴隷でもある氏族を、全て殺してしまうと大損してしまうので、男子については子供を為せないように男性器を切除する方法が考案されたのだと考えられます。こうして不能にすれば、二度と再び滅ぼした氏族が甦る事はないからです。
こうして、得た奴隷を神殿などの雑用に使ったのが元々だったのでしょう。
後宮の管理人として宮刑に需要が生まれる
ところが、中国に封建国家が誕生し、国の規模が大きくなると宮刑に処せられた宦官には別の役割が求められるようになります。すなわち王が保有するハーレムの管理人です。
性的に不能な宦官なら、後宮の美女との間に間違いが起きる事もなく、後宮で生まれる子供は全て王の子供であるという証明になったからでした。
中国の歴史では、春秋時代、斉の桓公に仕えた豎刁 が自ら宮刑を受けて去勢し、王のハーレムの管理人を願い出て桓公の信頼を得、桓公死後に権勢を振るいました。
また、中国史上最悪の宦官とも呼ばれる趙高は、身内の罪に連座して秦で宮刑を受けますが、元々法律の知識に詳しかったので始皇帝に重用されるようになり、始皇帝死後には2世皇帝を操り、強大な権力を振るって秦を滅亡に追い込んでいます。
それに宦官は後継ぎがいませんから、厚遇しても死んだらその財産は国に没収されます。この気安さから洋の東西を問わず権力者は宦官を寵愛するようになっていました。
このように刑罰だった宮刑ですが、豎刁や趙高のような成功例?が広まると、自ら去勢して宦官になり栄耀栄華を極めたいと考える貧しい男性が出現し、一種のチャイニーズドリームの受け皿になっていくのです。
明・清時代は大宦官時代
宮刑は残酷な刑罰である事から、何度か廃止されたり復活したりしますが、明の時代になると復活します。しかし、宮刑はほとんど必要なかったようです。その理由は、自ら去勢して宦官になろうという志願者が大量にいた為でした。
明王朝も宦官天国と呼べるほどに大量の宦官を必要とし皇明実録によればその数は10万人に上りました。明末期には、宦官の補欠を3000名募集したところ、2万人も自宮(自分で去勢する事)した人々が殺到。多くが採用されなかったので、自棄になって犯罪者になる者が続出したので、宮廷は1500名も補欠を増員したと言われています。
次の清の時代には、再び宮刑が廃止されますが、やはり貧しさから逃れようと自宮する男性は後を絶たず、当人の希望ばかりか、貧しい親が子供を去勢して宦官とし宮廷に送り出す事さえありました。
超痛い!自宮手術
元々は宦官希望者が自分でおこなっていた去勢手術ですが、清末期には、低級の官吏である七品官の畢五家と小刀劉の2家が政府公認の小廠を開き、ここで刀子匠が去勢手術を請け負うようになりました。
その手術の手順を見てみると、裸にした自宮希望者をオンドルの上に座らせ、睾丸の根本を紐でしばり強制的に勃起させます。次に、刀子匠の弟子に身体を押さえつけさせてから、刀子匠がやや反り返った形状の刃物で睾丸と陰茎を一気に切り落としました。
手術は麻酔なしという乱暴なもので、術後は熱した灰を患部に塗り付けて出血を止め、尿道に金属の栓をして尿道が自然に塞がる事を阻止します。傷口は縫合もされず紙で包まれるだけで、手術から3日後に尿道の栓を抜くまで水を飲む事も禁止で、患者は傷が癒え起き上がれるようになるまで、2カ月もかかったそうです。
こんな乱暴な手術なのに、手術の成功率は99%で、ほとんどは死ぬ事はなかったと書かれています。ホントですかね?
【次のページに続きます】