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その後の鄴
鄴はその後も魏の主要都市として発展し、南北朝時代には再び国土になったようです。元々、黄河や漳河から運河を引き交通の便のよい場所なので、後趙、冉魏、前燕、東魏、北斉の各王朝の都になりました。
しかし、北斉が北周に滅ぼされた後、西暦580年には尉遅迥が帝位を簒奪する勢いの楊堅に反抗して挙兵し鄴に拠って抗戦しますが、あえなく敗北。その後、城は焼き払われて歴史的な使命を終えます。
三国志ライターkawausoの独り言
鄴が洛陽に遷都するまでの曹魏の事実上の首都である事は知っていましたし、主要な武将が、鄴に一族を人質として送り込んだ事も承知していましたが、鄴が洛陽遷都後も、太守や県令、あるいは曹魏の諸侯王を軟禁する監獄として機能しているのではないか?というのは、非常に新鮮な驚きでした。
本当に鄴に監獄のような役割があったのか、その辺りは不明ですが、鄴が魏の一都市という機能を超えて、重要な役割を担っていたのは確かなようです。
参考文献:正史三国志 晋書
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