曹魏の副首都、鄴は巨大な監獄だった?


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

袁術

 

光おォ!もっと光ォォー天帝(てんてい)は暗い所がお嫌いだァ!

はじめての三国志」の読者の皆さんこんばんわ、kawauso編集長です。

 

朝まで三国志2017-03 kawauso

 

久しぶりに三国志のオリジナル記事を書かせて頂きます。今回は、三国志における曹魏の副首都、(ぎょう)は巨大な監獄だったのではないか?という話です。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



難攻不落な鄴は人質を軟禁するのに向く

洛陽城

 

鄴は曹操が西暦204年に袁尚(えんしょう)から奪い取り、西暦220年に曹丕(そうひ)が洛陽に遷都するまで、曹魏の実質的な王都の役割を果たしました。

 

審配(しんぱい)

 

鄴は袁紹の本拠地だけあり大変な堅城で、審配(しんぱい)が守っていましたが曹操を沢山の弩兵(どへい)に狙撃させたり、裏切った馮礼(ふうれい)が曹操軍300名を手引きして城内に入ると、門の上から大石を落として轢殺(れきさつ)するなど防御兵器が整っていたようです。

 

承諾する曹操

 

結局曹操は、地下道を掘ったり、糧道を潰して兵糧攻めにしたり、鄴の周辺に幅と深さが6メートルもある(ほり)を掘り、漳水(しょうすい)を流し込んで水攻めにする等、半年ほど掛けて陥落させています。

 

ここから見ると、鄴というのは防御力が高い城であり、各地から人質を連れてきて軟禁するには都合が良い場所であったのかなと推測できます。

 

次々と鄴に送り込まれる人質

兵士 朝まで三国志

 

さて、鄴に人質が送り込まれたと書きましたが具体的に人質を送った人物を紹介します。

 

馬騰と曹操

 

馬騰(ばとう):建安13年(西暦208年)張既(ちょうき)に促されて渋々(しぶしぶ)ながら馬休(ばきゅう)馬鉄(ばてつ)のような息子達と鄴に移動しています。

 

韓遂

 

韓遂(かんすい):馬騰と同時期に鄴に任子(じんし)(人質)を送っています。

 

藏覇(臧覇)

 

臧覇(ぞうは):建安10年(西暦205年)曹操が南皮で袁譚(えんたん)を破った後に臧覇と戦勝パーティーを開くと、その席上で家族を鄴に進んで出向かせた事を報告し曹操に忠誠を激賞されています。

 

李典

 

李典(りてん):建安11年(西暦206年)拠点としていた乗氏(じょうし)から、三千家余りの一族郎党を鄴に移住させ曹操に耿純(こうじゅん)(なら)うつもりか?と揶揄(からか)われています。

内容に納得がいかないkawauso様

 

しかし、これだけだと

「単純に当時は鄴が魏の首都だから、そこに人質を送っただけじゃね?」という疑問も生まれますが、もう少し調べてみると、さらに意外な事が分かりました。

 

激動の時代を生きた先人たちから学ぶ『ビジネス三国志

ビジネス三国志

 

洛陽遷都後も鄴には人質が送られた

曹叡から可愛がられる孫資

 

しかし、明帝、曹叡が即位した後の(みことのり)に以下のようなものがあります。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

「明帝は各地の郡県の令に使者を送り、自分の統治するエリアの危険度を(げき)(ちゅう)(へい)で自己申告せよと命じた。

 

暴れまわる異民族に困る梁習

 

この時、涿郡太守(たくぐんたいしゅ)王観(おうかん)の部下は涿郡を「中」か「平」にしようと進言したが、王観は涿郡が辺境で異民族の攻撃も多い故に劇だと応じた。それに対し部下は「劇」に認定されると恐らく人質を出さねばならなくなりますよと答えた。

 

しかし、王観は太守とは民の為に存在するのであり、劇と認定されれば危険地域として民は賦役が軽くなる、私の個人的なことのために群民を裏切る事は出来ぬと言った」

 

病気になった兵士

 

こうして王観は涿郡を「劇」認定し、病弱な後継ぎ息子を鄴に人質に送ったと三国志王観伝に書かれています。明帝の時代はすでに、洛陽に遷都し鄴は首都ではありませんが、そのまま人質は鄴に送り込まれているのです。この点から鄴には広い意味では逃げられては困る人質を軟禁する監獄の役割があったのではないかとkawausoは推測します。

 

皮肉、、司馬懿が魏の諸侯王を鄴に軟禁

司馬懿と曹爽

 

さて、曹魏にとって叛かれては困る重臣の身内を軟禁していた鄴は皮肉な運命を辿ります。西暦249年高平陵(こうへいりょう)の変で曹爽一派を追い落とした司馬懿(しばい)が魏で権力を握ったのです。

 

王淩

 

ここから司馬一族の天下への地盤固めが始まるのですが、西暦251年正月、兗州刺史(えんしゅうしし)令孤愚(れいこぐ)と太尉の王淩(おうりょう)が宣帝に背いて、楚王の曹彪(そうひょう)を帝位に立てようとクーデターを計画。

 

王淩(おうりょう)と司馬懿

 

しかし、司馬懿に計画は漏れてしまい決起する前に王淩は捕えられ毒を飲んで死にます。

 

司馬懿

 

ここから司馬懿は、同様の擁立クーデターが起きないように曹魏の諸侯王をことごとく集めて鄴に留め置き、官吏に命じて監視させて連絡を取りあえないようにしたと晋書、高祖宣帝懿記に書かれているのです。それまで、曹魏に叛く恐れがある重臣を軟禁していた鄴に今度は曹魏の諸侯王が軟禁され、官吏がそれを厳しく監視しているのですから皮肉な噺ですね。

【次のページに続きます】

 

次のページへ >

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-三国志の雑学
-