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この記事の目次
商工業への課税はなく、農業生産の拡大で年貢率は低下
こうして、地方の商工業は強化されますが、徳川幕府は農本主義の姿勢を換えず商工業への課税はほぼありませんでした。
また、年貢も実効税率が200年間も据え置きされたので、農業生産の増加に従い税率は傾向的に下落、幕府直轄領のデータではありますが、30%だった税率が16%から17%まで減少していました。
こうして、大坂の大商人と支配階級の武士の富が目減りし、その分が地方の工、商人、人口の70%を占める農民に還元されていき、江戸後期、日本社会の経済格差は縮小していったのです。
世界的に見ても格差が小さい江戸日本
この格差縮小の傾向は1840年代の長州藩の階層別世帯所得表でも確認できます。
このデータにより、人口の10%を占める武士の世帯所得水準が1.2に過ぎず、人口の75%を占める農村の世帯所得1.0に比較して20%の増加。人口比15%の都市の商工人口の1.1に比較すると僅かに9%の所得増に過ぎない事が分かります。
これに対し、1688年のイングランドの階層別の世帯所得表を見てみると、人口の5%を占めるイングランドの支配層の所得水準は7.3ですが、人口の44%を占める中産階級の所得水準は2.4と支配層は中産階級の3倍の所得を持ち、人口の51%を占める下層民の所得水準は0.8で支配層とは9倍の開きがあります。
データとしては、152年程の時間の開きがありますが、日本は世界に比較しても社会格差が小さい国であった事が分かります。
富を広く浅く分配した結果、農民は豊かに
江戸日本の経済格差の小ささは人口の大多数を占める農民所得の拡大をもたらしました。1990年の国際ドルの価値で比較したデータによると、西暦1600年、日本人1人あたりのGDPは659ドルでしたが、1721年には669ドルになり、1846年には896ドル、1874年には1011ドルに成長しています。
ちなみに生存維持に必要なドルの水準は400ドルですが、1846年の日本人1人あたりのGDPはその2倍以上あり、その頃までには庶民は衣食住以外にも、ある程度の支出を振り分ける事が可能になっていました。
江戸時代には、庶民がお金を積み立ててお伊勢詣りに向かったり、農閑期に近場の温泉で骨休めをする「泥落とし」が一般化しましたが、それは、富を広く薄く分ける幕府の平等政策によって実現されたと言えるのです。
もちろん、武士階級でも足軽から旗本、大名まで所得に格差がありましたし、地方の商工業者でも所得には開きがありました。しかし、人口の7割を占める農民という層の厚さを考えると、1846年で1人あたり896ドルというGDPは、江戸時代の格差がかなり小さい事を裏付ける数値と考えられます。
開国後格差は拡大する
逆に自由貿易に舵を切った開国後の日本では、格差が急速に拡大した事が分かっています。所得の不平等さを示すジニ係数は、日本では1890年代においてすでに0.43でしたが、昭和12年(1937年)には、それが0.57に急上昇しました。
この0.57という数値は2010年度のアフリカザンビアとほとんど同じ富の不平等を示しています。
そして、もう一つの所得格差を示すスーパーリッチ(納税者の上位1%層)の国民所得占有率を見てみると、その比率は1890年代には14%を少し下回る程度であったものが、1920年代前半には19%に上昇し、昭和恐慌で若干の低下を見たものの、すぐに回復し1938年には戦前期における最大値19.9%を記録しています。
このように明治維新後に、スーパーリッチの興隆があり国民所得の20%を占有するまでになったのです。
日本史ライターkawausoの独り言
鎖国を悪とする風潮には、貿易は自由であるべき!制限貿易は悪だという先入観が見られます。しかし、実際の国家は自国の産業を守る為に関税を高くしたり政府が産業を支援する事だってあるのです。
江戸幕府が、どこまで格差縮小を考えていたか分かりませんが、外国をほとんど排除して国内の人と物を統制した結果として、国内の所得格差は小さくなったのは事実です。
だから鎖国すべきとは言いませんが、自由貿易が所得格差を大きくする側面があるという事も考慮した方がいいとkawausoは考えます。
参考文献:世界史における日本の近世:長期の視点からみた成長・格差・国家
日本学士院会員 斎藤修
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