日本はどうして経済格差が小さい社会を築けたのか?

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経済格差が小さい社会(1P目)


中間搾取を撤廃した織田信長

天下布武を唱える織田信長

 

この状況を根本から覆したのが戦国の風雲児織田信長でした。信長は中間搾取の最大勢力である比叡山延暦寺を徹底して叩き潰すなどして中世の既得権益を認めず、自国領において

 

「農民には原則として年貢以外に重い税を課してはならない」と触れを出しました。

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

信長が領地で定めた年貢は三公七民とも言われ、通常五公五民で合戦では臨時税も課された庶民に取っては、かなり低率の税金でした。こうして浮いた銭を庶民は遊興に使い消費に回したので織田領内では、経済が急速に発展していったのです。

 

豊臣秀吉 戦国時代

 

900年近くも命脈を保った荘園ですが、戦国大名の実力介入で荘園領主の権利が浸食され弱体化、豊臣秀吉の太閤検地で土地1筆に所有者1人の原則が出来ると少なくとも表面上は消滅しました。


徳川250年の泰平を支えた領地の力

酒席で下戸の明智光秀をいじめる織田信長

 

織田信長は部下に土地を分け与える封建制に限界を感じ、中央集権の公地公民制に戻そうとしていましたが、強固な封建領主である明智光秀の謀反により本能寺で倒れました。

 

明智光秀を馬鹿にする豊臣秀吉

 

明智光秀を討って信長の後継者になった羽柴秀吉ですが、低い身分から成りあがった出自の為に、公地公民制の構想を持っていたものの、部下に多くの土地を恩賞に与えて、忠誠を繋ぎとめるしかなく、直轄領は徳川家康よりも小さいものでした。

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

やがて、秀吉が没すると日本一の土地持ち大名、徳川家康が台頭し、関ケ原の戦いで石田三成を破り、西暦1603年江戸に幕府を開き、さらに大坂の陣で豊臣家を滅ぼします。

 

徳川家康とマブタチな本多正信

 

信長や秀吉と違い、公地公民制は採用しなかった家康ですが、関ケ原の合戦で西軍についた大名の土地を大量に没収しており、将軍家と徳川一門の土地を合わせると支配領域は800万石、日本の全耕作地の25%を抑えていました。

 

徳川家康

 

徳川幕府は圧倒的な石高と国内の主要な港と金銀、それに貨幣鋳造権を一手に握る事で、諸大名を完全に支配下に置き、鎌倉幕府や室町幕府とは比較にならない強大な政権基盤を整備し、日本は250年の空前の泰平と安定した政治を手に入れます。


土地の一極集中が起きなかった江戸時代

江戸城

 

世界史を見ると、土地と富の一極集中が起きて社会が不安定化し、やがて旧権力を倒した勢力により、土地と富が再分配されるも、しばらくすると貧富の差が開き、土地の兼併と富の収奪が起きて、土地と富の一極集中が生まれて社会不安が増大するというサイクルを繰り返します。

 

ところが、日本では江戸時代末期でも小作農は30%程度で土地の一極集中は起きていません。

 

馬に粘土を載せて運ぶ人(幕末時代)

 

この理由は、農村においては、定期的に農地を振り替える割地と言うやり方で、絶えず各農家の収穫量に不公平が出ないように気を配り、また、やむを得ない理由で土地を手放しても、借りた元本さえ支払えば、何年経過しても土地は持ち主に戻るというシステムを採用していたからです。

 

また江戸時代の年貢は村請で、村全体で納税が割り当てられていたので、一軒農民が減ると他の農民の年貢が重くなるので、互助の精神が生まれ助け合いました。

 

それに江戸時代の年貢は当初の四公六民から、インフラ整備完了により三公七民になった後、再び計測し直される事がなく、耕作地が増える事で実質上の減税になっています。

関所

 

もちろん、相対的に年貢が軽い幕府の天領と財政難に喘いだ諸藩では年貢や農民の負担は違いますが、人口が3000万人の時代に、年間400万人がお伊勢参りに出かけ「泥落とし」と呼ばれる農閑期の農民の慰安旅行が普通に行われていた事実を見ると、一般の農民には衣食住以外で使える、ある程度の可処分所得(かしょぶんしょとく)がある事が(うかが)えます。

 

年貢負担の軽さによる可処分所得があればこそ、急な出費にもある程度対応でき、土地を売る最終手段に出なくて済んだし、また土地も元本さえ返せば戻ってくる、このような制度があればこそ小作農は30%という低い値に留まったのでしょう。


幕府による豪商取り潰しと徳政令

戦国時代の密談

 

江戸時代には、商業は比較的自由であり、経済も発展して豪商も誕生しましたが、それにより大商人に富の一極集中が起きたという事はありませんでした。

 

その大きな理由は、幕府により私有財産が制限され、あまりに羽目を外した贅沢をすると、突然幕府に家が取り潰され財産を没収される事があったからです。

 

それに豪商には、富める者として社会的な責任が課され、防風林の植林や、堤防修理、架橋、大飢饉では義援金を供出させられるなど、決して安穏(あんのん)と利潤だけを追求していればいい存在ではありませんでした。

 

日本戦国時代の鎧(武士)

 

また、幕府は江戸中期から困窮しだした武士についても、享保の改革、寛政の改革、天保の改革で共通して徳政令を出し、武士の借財を棒引きにしていたのです。これは50年周期で行われ、武士は父の借金は背負っても祖父の借金は背負わないと言われました。

 

もちろん、一方的に損をする札差(ふださし)と呼ばれる貸金業者には、特別融資をするなどして幕府は経営を援助し、金融不安が起きないように配慮していました。だからこそ、金貸しと武士は持ちつ持たれつで、極端な貸しはがしなどは起きなかったのです。江戸幕府の強権が、財産と土地の一極集中を阻止し、富が再分配されるように機能していたんですね。


地租改正という農地解放

黒船(ミシシッピ号)

 

強力な権力基盤を誇り、250年繁栄した江戸幕府でしたが、18世紀末のフランス革命以来、欧州で次々と誕生した中央集権化した国民国家には太刀打ちできませんでした。

 

幕府を倒した薩摩・長州が母体の明治政府は封建制を放棄し、古代のように天皇を頂点においた中央集権制を施行し、富国強兵を実現しようと、版籍奉還、さらに廃藩置県を断行し300を数えた諸藩から土地と人民を中央政府に返還させたのです。

幕末77-14_錦の御旗

 

こうして封建体制を終わらせた上で明治政府は、土地をそのまま所有者である農民の物として与え、年貢ではなく土地の価格に3%の税を掛ける地租改正を行いました。つまり税金を物納ではなく金納にし、政府の財源を安定させようとしたのです。

 

この地租改正、教科書的には評判が悪く徳川時代よりも年貢が重くなったと不満を持った農民が、頻繁に一揆を起こしたとされますが、一揆が多く起きたのは年貢が安かった幕府天領の農民がメインでした。

内容に納得がいかないkawauso様

 

明治9年米価の下落で、農民の収入が相対的に減少、3%の地租が重くなったので、三重、茨木、和歌山で一揆が頻発、これに不平士族の反乱と自由民権運動が重なり窮地に陥った明治政府は、地租を2.5%に引き下げ、以後は維持します。これは江戸時代の年貢に比較すると20%の減税でした。

 

江戸時代、土地は原則売買出来ず、植えられる作物もお上により決められていましたが、土地の私有が認められた事で、それらの縛りも撤廃され、農民は自分の土地を自由に使う事が出来るようになります。

 

地租改正が農民に取って決して悪くなかった証拠として、明治6年(1873年)と明治45年では米の収穫量が10アール当たり、24021石から50222石と2倍に増えている事でも裏付けられるのです。

 

地租改正は、戦後の農地解放とは比較にならない富の再分配でした。

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