【麒麟がくる】戦国時代の関所は無益な銭取り装置だった


明智光秀の親友・吉田兼見

 

麒麟(きりん)がくるの主人公、明智光秀(あけちみつひで)が京都や(さかい)に旅行する(さい)にチラチラ(うつ)っていた関所(せきしょ)

 

天下布武を唱える織田信長

 

江戸時代の関所は各藩(かくはん)のセキュリティ装置でしたが、戦国時代の関所はそれとは違い、旅人から銭をむしりとるだけのお邪魔虫(じゃまむし)でした。やがて関所は織田信長(おだのぶなが)により領内から広く撤廃(てっぱい)される事になるのですが、今回は戦国のお邪魔虫関所について深堀(ふかぼ)りしてみます。

 

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勧進坊主の強制寄付の装置だった関所

筒井順慶

 

日本の関所はすでに飛鳥(あすか)時代の646年、大化の改新(かいしん)(みことのり)関塞(せきさい)を置くとされて出てくるのが最初ですが、遅くとも天智(てんち)天皇の時代には存在したようで東海道の鈴鹿関(すずかせき)東山道(とうさんどう)不破関(ふわぜき)北陸道(ほくりくどう)愛発関(あらちせき)等が有名でしたが、当時の関所は純粋なセキュリティーシステムであり通行人から(ぜに)徴収(ちょうしゅう)していません。

東奔西走の日々を送る筒井順慶

 

それが変化したのは、寺院の建立(こんりゅう)や修復、あるいは道路や港湾(こうわん)整備や橋を()ける為に僧侶(そうりょ)が全国を回り寄付(きふ)を求めて行脚(あんぎゃ)した勧進(かんじん)が切っ掛けでした。元々は、日本中を行脚して寄付(きふ)(つの)っていた勧進僧侶(かんじんそうりょ)ですが、鎌倉時代には権力と繋がり、(みなと)や道路、橋に木戸(きど)と呼ばれる簡単な関所を設置して通行人から通行料の名目で銭や米を取るようになります。

宋銭 お金と紙幣

 

このように、僧侶によって関所で集められた銭や米は、単純に寺院建立や架橋(かきょう)、道路整備に使われたわけではなく金貸し等を通じて利殖(りしょく)に使われていました。このように鎌倉以降に勧進坊主(かんじんぼうず)が使った関所が中世以後の武士や寺院勢力のむやみやたらな経済的関所の乱立に(つな)がったのです。


50キロの間に8カ所の関所

 

幕末 魏呉蜀 書物

 

戦国時代の旅行記として有名な家久君上京日記(いえひさきみじょうきょうにっき)は、島津(しまづ)四兄弟として有名な島津家久(しまづいえひさ)が、天正三年(1575年)2月に薩摩の串木野(くしきの)()ち京都、伊勢神宮(いせじんぐう)、奈良などを回り同年7月20日に帰還(きかん)するまでの旅行記ですが、ここには理不尽なほどに多い関所についての記述が出ています。

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

家久一行は、現在の熊本市南区川尻(くまもとしみなみくかわじり)緑川(みどりかわ)加勢川(かせがわ)の間にある大渡(おおと)の関所で関銭(せきぜに)(通行料)を支払いますが、次の川尻にもまた関所があり家久は関銭を支払っています。先の話になりますが、家久は京都に1カ月程逗留(とうりゅう)して伊勢神宮を目指しますが、その道中20か所にも及ぶ関所を通過しています。

 

三国志大学で勉強する劉備

 

伊勢神宮の近辺では、松阪市から内宮(うちみや)までの50 kmに満たない距離の間に、百文(ひゃくもん)以上の支出を要したようです。当時の関銭は一カ所十二文位なので、単純計算でも8カ所の関所があった事になります。ちなみに百文は現在価格で15000円程度ですが、家久の一行は百名以上で、全体では150万円以上を支出した事になり、関所は相当な金食い虫でした。一応、関所を設けた在地勢力は銭を支払った旅人の安全を守る義務がありましたが、こんなに短い距離でボコボコ関所を立てられては有難迷惑(ありがためいわく)でしかありません。


法外な関銭に家久ブチ切れ!

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

2月28日、家久一行は南関(みなみせき)(熊本県南関町)で止められます。家久一行50人は通過できたものの、後続の60名が関守(せきもり)に止められたようでした。どうも、一度は通過を許したものの、家久一行の人数の多さに関守が(おび)えたようです。

 

この時は、南覚坊(なんかくぼう)という家久が雇った水先案内(みずさきあんない)が交渉し事なきを得ましたが、家久は立腹し、もう関所はこりごりとばかりに脇道を通り、五、六箇所の関所をスルーします。ところが、これだけ迂回(うかい)しても関所は再び出現しました。家久が嫌々関所に入ると、そこで関守が法外な関銭を要求したので、とうとう家久の堪忍袋(かんにんぶくろ)()が切れます。地五郎(じごろ)と思てバカにすっとな!こげん法外(ほうがい)な関銭払いもはん!

 

と言ったかどうかは不明ですが、数え29歳の家久は不満が爆発し、家臣総出(かしんそうで)で関守達に襲い掛かりボコボコに袋叩きにすると、関銭を支払わずに関所を強行突破しました。武士として一定の教養を持ち、分別がある家久でも爆発してしまうほどに、当時の関所は理不尽な存在でした。


権力者が通行すると姿を消す情けない関守

一向一揆(農民)

 

横柄(おうへい)で、庶民(しょみん)を苦しめて嫌われた関守ですが、自分達で対応できない権力者が通行するときには巻き()えを恐れて、こそこそと姿を消すのが(つね)だったようです。まったく情けない関所の自分勝手ぶりを示す話ですが、この時に得をするのが庶民でした。

 

権力者が関所を通る情報を得ると、関所の近くで待機し、いかにも権力者の手下のような顔をして一緒に関所破りをしていたのです。そこには当時の庶民のしたたかで逞しい一面が垣間見れますね。

 

織田信長があっさり関所を廃止

鼻をほじりながら無関心な織田信長

 

関所は、戦国大名にとっても迷惑な代物でした。在地(ざいち)の勢力が勝手に設置する関所の銭は少しも大名には入らず、ただ物流の足かせだったからです。それでも、これを廃止すると在地勢力との軋轢(あつれき)が予想されるので多くの戦国大名は渋々黙認(しぶしぶもくにん)していましたが、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて天下に抜きんでた織田信長(おだのぶなが)は経済力と軍事力を背景に領内の関所の廃止を断行し、鎌倉以来、しぶとく旅人を苦しめ続けた経済的関所は急速に姿を消していきました。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

戦国時代の関所とは、百害あって一利もないものでした。

 

事実、織田信長が領内の関所を撤廃し、道を拡幅(かくふく)して盗賊が隠れそうな森を切り開くと道中は夜中に旅人が野宿しても心配がないほどに安全になり、関所の警護なんか不必要になったのです。さらに関銭を撤廃すると、その分のお金が道中での消費を活発にし、信長の領内は(うるお)う事になるのです。

 

参考文献:日本中世への招待 毎日新書

 

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