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その恐ろしさたるやトラウマレベル
さて、前述したようにこの張遼の凄さは後の方にまで記述として残されるほど。特に何度も肉薄され、命からがら逃げる羽目となった孫権とその配下たちにはトラウマレベルだったことでしょう。
このため後に孫権は「張遼は病気でも戦うな」と言ってしまうほど。また江東の兵は「遼来遼来」と叫ぶだけで浮足立ってしまうほどその怖さは知れ渡ることとなりました。
遼来々
さて「遼来遼来」とは「りょうらいりょうらい」、つまり「張遼が来るぞ!張遼が来るぞ!」という意味です。
「あれ、遼来々(りょうらいらい)じゃないの?」と思った貴方は筆者と同じく吉川三国志を読んだ人ですね?
この「遼来々」は吉川先生の三国志での、言ってしまうと造語で、正しくは「遼来遼来」となります。どちらも意味合い的には同じですが、もしかしたら「遼来々」の方が馴染みが深いという人も多いかもしれませんね。
広まる張遼の凄さ……と、
さてここまで見れば分かるように、張遼は実は三国志演義よりも正史三国志の方の記述が派手という稀な武将です。かといって三国志演義で活躍していないという訳ではなく、魏の武将としては破格なほど活躍しています。
おそらくですが敵でありながら関羽とも交流があった、という点からの扱いと思われますが、正史を見直してよりびっくりしてしまう武将の一人でしょう。その名声と武勇は合肥だけに留まらず、三国の時代に轟いたのでしょうね。
因みに張遼、呉から降伏した兵士に「長身で胴長短足、碧眼の将がいたがあれは誰か?」と聞きました。すると兵士は「それが孫権さまです」と答えました。このため張遼の凄さだけでなく、孫権が胴長短足であったことまで有名になるというオマケまで付いてしまうのですが、それはまあ閑話休題としておきましょうか。
三国志ライター センのひとりごと
今回は改めて、張遼の武勇について、主に合肥の戦いでの逸話、戦歴をまとめてみました。ざっくりとしたまとめですが、見直してみてもやはり張遼の武勇の話は目を見開いてしまいますね。個人的には関羽や呂布にも劣らない、もしかしたら武人としてはその上を行く人物だったのでは……と思わせる武将ですね、張遼は。
参考文献:魏書張遼伝 呉書呉主伝
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