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この記事の目次
国内政治優先の欺瞞
西郷の朝鮮派遣は、明治6年(1873年)10月、太政大臣三条実美の決定により決まっていましたが、外遊から戻って来た大久保利通や岩倉具視、木戸孝允等が、今は国外問題より、内政を重視すべきだとして遣韓論を潰し土壇場で決定を覆しました。
これに失望した西郷隆盛は参議を辞して鹿児島に戻り、板垣退助や江藤新平も辞表を提出。
西郷を慕い、600名もの官僚・軍人が明治政府を辞職しました。これを明治六年の政変と言います。
しかし、国内政治を最優先するとした大久保や岩倉具視の言い分は嘘でした。明治8年(1875年)9月、日本は軍艦雲揚号が江華島付近で砲撃されたことを理由にして、永宗島に上陸し砲台を占領、守備兵を殺害し武器を略奪します。
日本側は朝鮮側の砲撃の責任を問い、交渉のための開国を迫り明治9年、不平等条約である日朝修好条規が締結され、朝鮮は開国させられました。江華島事件を知った西郷は、天理において恥ずべき行為だと激怒し、大久保が日本がアメリカにやられ屈辱をなめた砲艦外交を朝鮮に対して行った事を非難しています。
現在では、大久保が征韓論を潰したのは、国内政治と関係なく2年近い無意味な外遊で求心力を失った自己の権力掌握の策謀だったとする説も有力です。そして、この江華島事件こそ、現在の日韓関係トラブルの起点にあるものでした。西洋を模倣し帝国主義に走った大久保の罪は重いと言えます。
鹿児島に下野した西郷隆盛
下野した西郷隆盛は鹿児島で隠遁生活を送りますが、その存在自体が大久保を中心とする明治政府に対する巨大なアンチテーゼになっており、必然的に明治政府に不満を持つ士族が鹿児島に集まってくるようになります。
西郷は自分を慕い集まってくる士族をそのままにしておくと暴動に繋がると考え、鹿児島の子弟を中心に私学校を設立して入学させ教育しました。
明治政府から見ても、西郷が士族を抑えているのは望ましいように見えますが、明治政府の考えはむしろ逆であり、西郷そのものを脅威と判断します。私学校は軍事訓練も施しており、何かあれば火薬庫になると恐れていたのです。
すでに、九州各地では士族反乱が起きていて、明治政府は西郷隆盛が祀り上げられる事で強力なリーダーになると考え、鹿児島県の火薬庫の武器・弾薬を秘密裡に大坂に移す計画を立てて実行しますが、これを薩摩藩士族が目撃し逆に明治政府の弾薬庫を襲撃してしまいます。
元々、弾薬庫の移送は明治政府と鹿児島県の話し合いで日時が決まっていましたが、政府は事前通告なしに秘密裏に弾薬を運び出そうとしトラブルになりました。西郷の指示ではなく士族の暴発でしたが、西郷はもはや収拾はつかないと判断、兵を率いて東京に向かう決意をしたのです。
西郷の大義
西郷隆盛は、どんな気持ちで西南戦争を起こしたのか?
この問いは様々な書籍で繰り返し問われますが、史料を見る限り西郷は積極的な戦争を意図してはいませんでした。西郷の上京は、陸軍大将として政府に尋問したい事があるという理由であり、武力衝突を想定したものではないのです。
それは県令大山綱良に征討軍総督有栖川宮熾仁に宛てるよう託した文書から分かります。かなり長いですが、手間をいとわず現代文に意訳して読んでみましょう。
陸軍大将西郷隆盛、外2名上京の事は兼ねて通達した通り、すでに去る15日に鹿児島を出発しました。
ところが、西郷大将の上京においては、私が各府県鎮台に通知しておいたにもかかわらず、熊本県においては未然に庁下を焼き払い、そればかりか筋川尻まで押し出し、砲撃に及んだとの報告が次々に届き、とても驚いております。
そんな折、去る19日、東京政府より鹿児島征討の命令が出されたと聞きました。かかる事で陛下の御心を悩ませ、誠に畏れ多い事で御座います。
しかしながら西郷大将は、征韓論争後に辞表を差し上げ下野して以来、鹿児島県下で厳粛に謹慎致し、かつ数万の士族を教育すべく、自費で私学を開いて忠孝を重んじ、生徒を教え導き、決して行く道を誤らぬよう説得し、事実、佐賀の暴動、熊本、山口の暴動のある時も鹿児島からは1人も呼応しませんでした。
これは日本全国に知れ渡っている事であると確信致します。西郷大将に一体なんの罪があり、
討伐なさると言うのでしょう?
言うまでもない事ですが、(政府要人が)侵してはならない国憲を侵し、西郷大将暗殺命令を下した疑惑は今や天下万民の知るところです。
さらには、鹿児島に随行してきた使者が銃器・帯刀をして、私学校生に捕われ西郷暗殺を命ぜられたと自白したとあっては、これは容易ならざる事態にて、西郷大将が上京し政府の真意を問いただすのも無理もない心情かと思われますが、いかがでしょう?
つきましては、いよいよ当県を征伐されるとの事ですが、県官から人民に至るまで、全て討伐するとのお考えでしょうや?
身に覚えのない濡れ衣を着せられては、鹿児島県人民、皆、天皇陛下の民であり、その命令を奉じるつもりですが、士族などは動揺し暴発も起こる危険もあれば、一刻も早く陛下より勅書を出し調停して頂けるように取り計らって頂きたい。
そして、西郷大将の本懐(心の望み)を遂げさせて頂きたく、ただひたすらに願い奉るのみです。
法を無視する大久保への西郷の猜疑と怒り
この手紙には、政府が西郷を暗殺しようと公然と法を破り刺客を送った事に驚き、怒り、その真意を確かめるべく上京を決意した事が書かれています。
幕末の争乱時ならいざ知らず、すでに明治政府が樹立し、立法院として左院が置かれ、法治国家が誕生した筈なのに、法を無視して刺客を送り込む大久保のやり方に、西郷は怒りを感じたのです。
そして、本来ならば、単身で上京すべきですが、刺客まで放つ、明治政府の万能権力者、大久保相手では単身の西郷を捕縛して秘密裏に殺しかねず、用心の為に軍と共に上京する事になりました。
さらに、西郷は大山県令に西郷軍の通過ルートを各県省庁に通達するよう命じています。
ここでハッキリするのは、西郷は戦う為に鹿児島を出たのではなく、日本唯一の陸軍大将として、有司専制(少数官僚による独裁)に堕した大久保の政治に疑義を突きつけに上京したという事です。
事実、西南戦争は、明治10年2月20日、西郷軍の先鋒の連合大隊が、熊本県、川尻に到着した深夜、新政府軍鎮台参謀長の樺山資紀中佐が派遣した偵察隊が大隊に発砲した時から始まっており、西郷軍から仕掛けたわけではないのです。
そして、この段階でも西郷の地位は陸軍大将であり、その人物が上京するのを理由もなく政府が阻止し、討伐するというのも法を無視した暴挙でした。
堕落を極めた明治政府
当時の明治政府が、いかに人民政府の名に値しない堕落した存在だったかは、佐賀の乱直後、同じく明治政府の官僚だった井上毅が出した「官吏改革意見」を見れば分かります。
①官吏に規律がなく、遊郭で泥酔し、蛮勇を誇り、妾を蓄えスキャンダルが外にまで漏れ聞こえる。贅沢に暮らし、負債が山積してようやく慌てだし、商人と結託して日夜ソロバンをはじいて私利私欲に励む。
②官吏採用にルールがなく役人の選任は、仲間の援助か有力者への要請である。
地方によっては1人も採用されないのに、一県で数百人採用されるところもあり、後続の人間は、あつかましく頼み込むことが出来ないと役人として昇進は望めない。勢い、有力者の門前に群がらざるを得ない。
③不要なポストが多い。我が国の官制の多くは、一主二客で長官のほかに大輔、小輔2人の次官がいる。(中略)
そればかりではなく、特定の人のために官職を設け、仕事を増やしている役人までいる。
責任は厳しくなく能力も問われず、上司は旧知を大切にし情に溺れて免職にしない、かくして官制はいよいよ乱れ事務はいよいよ滞る。
④民政が収まらない、維新後の民政は旧藩に及ばないものだ。
第1に政府は地方官を軽視し、中央で使えない者のはけ口に地方を利用している。
多少、才能がある地方官は、ろくに仕事もしないうちに中央に戻る事ばかり願っている。
第2に県令に専決権がなく、法律が煩雑で、県令の行動を縛るので県令は法令に盲従し、全て武断で決定し民の痛みを見る誠意に乏しい。
以下略
⑤法律が多すぎる。各省は争って新令を布く、毎日のように法令が出るので10日もすると堆積してしまい人民は嫌気がさしている。
現在、法と称するものは人民の合議によるものではなく必要やむを得ず立法されたものでもない。その起源はわが国の慣習に拠らず、ただ西洋の猿真似である。以下略
このような状態で、人民は旧藩時代を懐かしみ、県令を恨む事甚だしいので、急ぎ官僚機構の改革が必要だと井上は説いています。
なるほど、大久保は確かに金銭には清廉だったかも知れませんが、このような腐敗した有司専制の上に独裁政治を敷いていたわけです。
これを西郷が見逃す事が出来ないと思ったのは、想像に難くありません。
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