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この記事の目次
共通する自由民権運動と西南戦争
西南戦争に限らず、明治初年の士族反乱は一括りに不平士族の反乱とレッテル貼りされ、特権を奪われ生活の困窮に追い詰められた旧下級士族が、自暴自棄になり起こされたと教科書でも説明されがちです。
しかし、それら一連の不平士族の反乱の発端に、大久保等の独裁政治を批判して下野した板垣退助や後藤象二郎が出した「民撰議員設立建白書」の意義に着目しないといけません。
民撰議院設立建白書で、板垣等は、まず、日本の政治権力が天皇にも人民にもなく、ただ少数官僚にあることを批判し、この弊害を打ち破るには広く人民の意見を反映させるべきで、人民の代表者による議会を設立すべきと提言します。
この「民撰議院」によって少数官僚の独裁を押さえて操縦し、政治は初めて人民の共有物になるとしたわけです。西南戦争後、自由民権運動は全国的な広がりを見せますが、その運動家達の中には、西南戦争を含む士族反乱を生き残った人々が大勢いました。
彼らは刀をペンに持ち替え言論の戦争を有司専制の政府に挑んでいきますが、それは単純に時代に取り残された、特権を奪われた士族の私的な不満によるものだけでは無かったのです。
自由民権運動も西南戦争も、法を制定した者が都合が悪くなると法を破って平然としている状況に疑義を唱え、改革を求めたという意味で共通していました。
いえ、西郷は決して戦争を意図せず、進軍ルートを通知し公明正大に東京まで行き、大久保と膝を突き合わせ事態の収拾を図れると信じたのですから、これもまた言論による政府への抗議の形だったとkawausoは考えます。
大久保を斬った男
かつての盟友、西郷隆盛の尋問を受けようともせず、西南戦争で葬ってより僅か7か月後、明治政府の権力の頂点に立った大久保利通は、石川県の士族、島田一郎等により紀尾井坂で襲撃され滅多斬りに切り刻まれる無残な最期を遂げました。
しかし、この紀尾井坂の変、主犯格の石川等の私怨で、大久保がとばっちりで殺されたように解説される事が非常に多いようです。
ところが調べてみると、これも的外れであり、島田一郎は、とばっちりどころか明確に大久保暗殺を狙っており、その理由をちゃんと記した斬奸状をテロに至る前に作成し各新聞社に送っていました。ただ、今も昔も権力に弱い新聞社は、その内容を怖れ掲載せず、唯一、朝野新聞だけが斬奸状の内容を手短に掲載し即日発行中止になっています。
斬奸状によると大久保を斬った理由は以下の五か条でした。
①議会を開かず民権を抑圧し、政治を専制独裁した罪
②法令を乱用し私利私欲を横行させた罪
③不急の工事、無用の修飾により国財を浪費した罪
④忠節、憂国の士を排斥し内乱を起こした罪
⑤外交を誤り国権を失墜させた罪
テロ実行犯の島田一郎は、ただの時代に乗り遅れた不平士族ではなく、征韓論者であると同時に急進的な民権論者で戊辰戦争で手柄を立てて軍人として順調に出世した人物でしたが、征韓論争で西郷隆盛の下野に同調して軍人を辞めた人でした。
彼は決して維新に乗り遅れた人物ではなく、むしろ勝ち組に属していました。ここから見ても、明治維新で特権を失い自暴自棄になった不平士族が私怨で大久保を斬ったのではない事は明らかです。
今で言えばテロリストである島田一郎にも、自由民権論者としての板垣退助や後藤象二郎、江藤新平にも、西郷隆盛にも、国を私物化して、敵対者を法を無視してまで排斥する大久保への憤りが共通して存在します。彼らはバラバラに大久保を非難していたのではなく行動のタイプは違えど、同じ問題意識を共有していたのです。
大久保利通と井伊直弼
西郷隆盛が倒幕を考えるようになった契機は安政の大獄後のようです。そこには、将軍後継者問題で一橋慶喜を擁立していた一橋派に対する井伊直弼の厳罰処分が関係していました。
安政の大獄では、橋本左内、梅田雲浜、吉田松陰、頼三樹三郎、安島帯刀、鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉、茅根伊予之介、
飯泉喜内、日下部伊三治、藤井尚弼、信海、近藤正慎、中井数馬等が切腹・死罪となりましたが、
松平慶永の回顧録「逸事史補」には橋本左内らについて評定所から「流罪や追放、永蟄居が妥当」との意見書が大老井伊直弼に提出されたものの、数日後に「死刑」の附札が付いた書類が戻ってきたとあります。
しかし、元来、附札は評定所の決定を軽減する温情の為に存在するものであり、罪を重くするという事はありませんでした。
井伊直弼は恣意的に法を曲げて、流罪や追放、永蟄居とされた人間を殺してしまったのです。それも攘夷も開国も関係なく、ただ紀州派のライバルである一橋慶喜を将軍に推していたという私怨によってです。西郷には、大久保のやり方がかつての大老井伊直弼と二重写しに見えていたのでしょう。
明治維新は、少数の譜代大名が徳川氏の為に政治を行う旧来の政治を止め、天皇の下に上下が力を合わせ政治を刷新する事を理想としました。それが維新が成就するや、藩閥が政治を私物化し、大久保利通はその上に独裁政治を敷き、敵対者を非合法な手段で抹殺しようとしている。まるで安政の大獄の井伊大老のように…
一体、自分達が目指した維新とは何だったのか?を改めて大久保に問い直したくなったのだと考えられます。
「一蔵どん おはんのすっコツは 井伊大老と少しも変わいもはんぞ」
西郷は、西南戦争の間、ずっとそのように東京の大久保に問いかけていたのではないでしょうか?
西南戦争の後、日本は決定的に進路を誤った
西南戦争:白は新政府軍 黄色は西郷軍の進軍ルート(かなりいい加減です)
西南戦争は前述した通り、明治10年(1877年)、2月20日、熊本城近くの川尻で西郷軍の大隊と政府軍の偵察部隊が遭遇し政府軍が発砲した事で火ぶたが切られます。西郷軍は熊本城を包囲、熊本城を守る新政府軍は4000、それに対して西郷軍は14000でした。
熊本城を落とせば、さらに九州各地の不平士族が立ち上がる可能性もありましたが、最初から戦うつもりのない西郷軍に武器と弾薬の備えは乏しく、豊富な物量を持つ新政府軍が続々と熊本に援軍を送ってきた事で次第に苦戦していきます。
西郷軍は、新政府からの援軍を食い止めようと途中にある田原坂を遮断しようとし、新政府軍と激闘が繰り広げられます。しかし、兵站を備えた新政府軍と、鹿児島から持ってきた物資以外に補給が出来ない西郷軍では、勝敗は最初から明らかでした。
田原坂が新政府軍の手に落ちると、熊本城からも西郷軍に攻勢に転じ、西郷軍は撤退を開始します。そして、西郷隆盛は僅かな手勢と共に鹿児島県の城山に籠り、9月24日、別府晋介に介錯を頼み果てたのです。
7か月後には、大久保利通も独裁者のまま、島田一郎等によって無残な最期を遂げます。ですが、大久保の敷いた政治路線、西洋型帝国主義は、その後の政治家、そして官僚にも途絶える事なく踏襲されました。
江華島事件は、現在の韓国との間の歴史問題として禍根を残していますし、征韓論反対派だった大隈重信は第1次世界大戦中の大正4年(1915年)戦争の混乱に乗じて、対支21ヶ条の要求を当時の袁世凱政権に突きつけ要求を飲ませますが、中国人民の猛反発を受け、今日まで繋がる中国の反日感情の出発点を造ってしまいました。
道義など要らない、この世は勝者が正義であり、弱肉強食こそ真理という帝国主義路線を、明治六年の政変以後、日本は顧みることなくひた走り、大東亜戦争では欧州に遅れて帝国主義の路線を走った大国アメリカと激突。ここに至り、初めて正式にアジア解放の大義を掲げてみたものの、そこまで自らも帝国主義を走ってきた矛盾はついに解消できませんでした。
歴史にifはありませんが、西郷が主張した通り、李氏朝鮮の国体を尊重し軍隊を引き連れず、西郷が単身で古式の礼服に身を包み、懸命に道義を説いて朝鮮政府を説得したならば、その後の歴史はどうなっていたでしょうか?
仮に交渉が不調に終わり、最悪西郷が殺される事態に至っても、日本は西洋の砲艦外交を真似しなかった道義の国だという評価が現在まで残ったのではないかと思います。そして、その後の日韓関係・日中関係は、今とはかなり違うものになったと思うのです。
西南戦争まとめ
西南戦争を望んだのは、西郷隆盛ではなく大久保利通でした。
彼は、明治六年の政変以後、自己の権力欲に取りつかれた独裁者になり、配下の大警視、川路利良を使って、自身に批判的な要人をマークし、自らに挑んだ江藤新平を追い詰めて佐賀戦争に追い込み、法律を無視した暗黒裁判で斬首という屈辱を与えて殺します。
そして、国内政治優先と言う美名で征韓論を潰しながら、西洋列強が不平等条約に文句をつけないと知るや、江華島事件を起こして砲艦外交を展開し、李氏朝鮮と不平等条約を締結しました。
九州で、士族反乱がおきると、西郷を警戒し刺客を放って殺害しようとし、その執拗な態度に、安政の大獄の井伊大老の姿を見た西郷隆盛は、大久保の政治姿勢を尋問すべく軍を率いて上京しますが、大久保はそれを認めずに軍を出して西郷軍を阻止し、その戦端が開かれたのが熊本だったのです。
大久保は西郷を恐れ、西郷を上京させれば身の破滅だと怯えて、法律を無視して西郷が反乱を起こしたと決めつけて攻撃したのであり、その行動には正当性の欠片もありません。西南戦争に本当に負けたのは、己の疚しさに向き合う事を避け、西郷を殺す事で権力延命を図った大久保利通だったのです。
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