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この記事の目次
宦官という存在
と、まとめると宦官になると専横しまくり、皇室でやりたい放題に思えるかもしれませんが、決してそうではありませんでした。名目上の宦官は「官僚」という役職ですが、宦官は他の人々からは嫌悪され、嫉妬され、そして侮蔑を向けられる役職でもあったのです。
というのも時は儒教の時代、親から貰った体に傷を付けるというのさえいけないこととまで考えられる時代に、自らの意思で体の一部を捨てる、子孫が残せなくなるので家の終わりを迎えてしまう、こういう存在となってしまう宦官とはもはや人の道からも外れた者として扱われ、だからこそ刑罰とされていたのです。
このために、高い地位についていても宦官とは見下されることが多く、侮蔑の対象であり、地位と権力を持っていてもひどい扱いを受けていたとも言われています。
順帝、定める
さてここで少し時代は安帝の頃に。安帝の時代も終わりに近い頃から、外戚となった皇后の親族である閻氏や側近の宦官らの讒言により、本来次の皇帝となる嫡子の順帝は一時的にですが廃嫡されました。
しかし後に宦官の孫程のクーデターにより閻氏らが打倒されたため、順帝は無事に皇帝となることができました。この順帝に良く使えた宦官の一人に、梁商がいます。彼は順帝の即位のために力を尽くしただけでなく、その後も良く政治を支え続けた名宦官と言っても良い存在でした。そして彼を含めて宦官に良く支えてもらった順帝、あることを定めてしまいます。
順帝、やらかす
それは「宦官でも養子をとっていいよ」ということです。前述したように、宦官は一代きりの権力しか持てないというのがある意味で最大の皇室にとってのメリットでした。そんな宦官だからこそ、外戚や何代も続いてきた重臣たちが権力を握り過ぎた時の対抗策となることもできたのです。
しかも追い打ちをかけるかのように……なんかこの後の命運を感じるかのように……梁商が養子に取ってきたのはこの後に(悪名の方で)名高くなる梁冀。こうして後々皇室の権威は失墜、ある意味で順帝は三国志時代の幕開けを作ってしまった人物と言えるでしょう。
宦官のイメージ
さて最後に宦官のイメージについて。宦官のイメージと言えば悪い奴、というのは間違いではないこともないこともない……ええいどっちだ?……というのはジョークとして。
宦官のイメージが悪くなった背景には、皇帝が権力を握る=裏に宦官がいる=皇帝が悪い政治をする=つまり宦官が悪い!という、別の言い方をすれば責任を皇帝ではなく宦官に押し付ける、という場面が多くされたからではないかな、とも思います。
もちろん、皇帝を操ってやりたい放題をした宦官もいたことでしょう。しかし実際には、優秀で忠誠心のある宦官も多くいました。どうしてもイメージから悪人の印象が強い宦官ですが、ただ一概に悪ではなく、色々な政治的背景もあったのだ……ということは、考えていきたいですね。
三国志ライター センのひとりごと
今回は宦官について、筆者なりにまとめてみました。こう見ていくと宦官という存在は、政治背景には欠かせない存在であったことが分かります。曹操の祖父も宦官ですし、実は三国志の骨組みに宦官という存在も大きいのかな、と考えさせられましたね。
参考文献:後漢書 孝順孝沖孝質帝紀
参考:wikipedia 宦官
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