信長相手に10年!一向一揆の黒幕・本願寺の強さを徹底解説




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一向一揆

 

一向一揆(いっこういっき)。これは大阪の石山本願寺(いしやまほんがんじ
)
を拠点として、織田信長(おだのぶなが)と10年にわたって対決を繰り広げた、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の仏教寺院・本願寺が起こした一揆です。全国で勃発していた一向一揆の黒幕として戦国時代を混乱させた一大勢力です。

 

ちょっとしたことでブチ切れる織田信長

 

なぜ一介の仏教寺院の僧侶に過ぎなかった彼らは、信長と十年も戦え、また全国の大名を苦しめたのか?その理由や背景について徹底解説します。




本願寺とは何か?

北条時宗 (坊主)

 

本願寺(ほんがんじ)とは、仏教寺院の名称です。親鸞(しんらん)を宗祖とする浄土真宗の寺院の名称。宗の中にいくつかの派閥がありますが、その派閥のひとつが本山を「本願寺」と名乗っています。

 

現在では本願寺派の西本願寺、大谷派の東本願寺が有名です。戦国時代のもいくつか本願寺があり、有名なのが現在の大阪城の場所にあった石山本願寺です。この石山本願寺が織田信長相手に10年戦った本願寺で、寺院といいながら要塞のような城壁を持っていました。

 

海の近くで、京とも淀川の水運で便利だったころ。戦略的にも重要な場所であることから、同じ場所に豊臣秀吉が大坂城を建立しました。当時本願寺はこのほかにもいくつか存在して、時代ごとに点々としています。京都には大谷、山科に本願寺がありましたが、いずれも戦乱により破却。

 

また紀伊の国に鷺森本願寺、和泉の国に貝塚本願寺。また天満本願寺というのもありました。そのほか、一向宗では石山本願寺同様に加賀の国を一時支配した。北陸の尾山・吉崎御坊が有名です。特に尾山御坊は金沢にあり、後にそこには金沢城が築城されます。

 

このほか若き日の家康を苦しめた三河には、三ヶ寺本證寺(ほんしょうじ)、上宮寺(じょうぐうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)という寺院がありました。この寺院の力は大きく、一向一揆がおきる前、家康の父・松平弘忠の時代から、守護大名が介入できませんでした。




一向一揆とは何か?

一向一揆(農民)

 

一向一揆(いっこういっき)の概要を解説します。戦国時代には大名同士の戦いのほか、僧侶たちや一般庶民も武装を行い、国民全体が兵隊のような状態でした。庶民が武装して領主と戦うのは一揆と呼ばれていました。

 

その中でも浄土真宗本願寺教団(一向宗)が組織した武装組織が一向一揆です。一向宗の教えを信じる信者たちは、農民、商工民のような庶民だけでなく、土豪と呼ばれていた地域の武士なども含まれており、それを指導するのが寺院の僧侶たちでした。

 

この一向一揆は、1466年の近江金森合戦が最初と伝わります。最初は農民たちの反乱のようなものととらえられていましたが、この存在が大きくクローズアップされたのが1488年に行われた、加賀一向一揆でした。これで加賀の守護大名・富樫政親(とがしまさちか)が自害する事態に陥ります。

 

こうして一向一揆の脅威が全国的知られるようになりました。こうして大名をつぶせるほどにまで強くなった一向一揆は各地に自治都市を形成。この状態は戦国末期に信長が台頭するまで続きます。一向一揆広域は代表的なものだけでも8つあり、戦国時代の混乱をより一層強くする正体でした。

 

本願寺顕如とは?

本願寺顕如

 

一向一揆を指揮した一向宗の本山が本願寺です。歴代本願寺のトップの中でも、信長と戦ったのが11世宗主・本願寺顕如(ほんがんじ けんにょ)。教団の最盛期に君臨した僧侶です。10世証如の子として1543(天文12)年生まれました。1523(天文23)年、父の死により継承します。

 

母の補佐を受けながら教団運営をおこないます。浄土真宗は宗祖・親鸞以来、僧侶が妻帯することが認められておりました。そのため顕如は大名のように室町幕府の実力者・細川京兆家や公家と縁戚関係があります。自らの妻も政略結婚で、武田信玄の正室・三条夫人の妹を迎えています。

 

ところが武家の封建社会の序列の外での権力者であったために、15代足利義昭を将軍につけて実権を握る信長と必然と対立します。そして信長から様々な圧力を受けはじめます。たまらなくなり1570(元亀元)年についに顕如は信長と交戦します。

 

顕如は全国の教団寺院に対して「おのれ仏敵である信長を討て!」という檄文を各地に飛ばしました。さらに「仏法の灯火を守る。阿弥陀如来の名において織田とわが一向宗に敵する者と戦い、滅ぼしてしまえ!従わねば破門を命ずる!」とまで言い切り、信長との戦いを鮮明にします。

 

これは全国の本願寺だけではなく、徐々に信長と対立していた将軍義昭をはじめ、信長に権力を奪われた三好三人衆ら反信長や全国の戦国大名と手を結ぶことになります。これが有名な「信長包囲網」。さすがの信長も簡単に倒すことができず10年間の交戦状態が続くことになります。ちなみに 石川県立歴史博物館所蔵の「顕如画像幅」を確認すると、顕如の姿は刀を持ち、鎧兜姿。とても僧侶には見えず、完全に戦国大名そのものです。

 

信徒を無敵の軍団に変えた本願寺の教義

噂話をする戦国時代の庶民(モブ)

 

なぜ単なる仏教僧に過ぎない本願寺が信長と互角に渡り合えるほど強かったか?その理由のひとつとして本願寺教団の元である浄土真宗の教えがあります。浄土真宗は阿弥陀如来のみを本尊とし、その阿弥陀如来による「疑うことなく、私に頼れば救われる」という呼びかけを重視。

 

つまり阿弥陀如来に頼みこむキーワード「南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)」と唱えれば、死後極楽に行けると説きました。そして本願寺はこの教義を利用し、「阿弥陀如来の本願にすがり、一心に極楽往生を信ずることにある」と教えました。

 

これは本願寺と敵対する存在は仏敵であり、南無阿弥陀佛を唱え続ければ、その仏敵は阿弥陀仏の力でやがて滅びる。そしてここで死んだとしても確実に極楽に行けるといいました。そのため貧しいだけでなく、戦乱で日々苦労している庶民たちは、死んでも極楽に行けると信じています。

 

だから命を惜しむことなく戦いました。資金源がある本願寺は武器もあり、また庶民だけでなく土豪の武士たちも参加しましたので、短期間で強力な武装集団が形成されます。

 

また浄土真宗は宗祖・親鸞以来、僧侶が妻帯することが認められておりました。そのため顕如をはじめ歴代宗主は世襲となっており、親鸞の血を継いでいました。つまり将軍家や大名家同様の血筋が保証されている君主と変わりなく、宗主の権威が強力な軍事集団形成にかかわったことがうかがえます。

 

これは本願寺を頂点とした全国組織なので、通常の大名同士の争いとは別次元に、強力な大名がいるのと同じようなこととなり、信長も各地の諸大名も手を焼いたのです。

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