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この記事の目次
血で血を洗う武臣の権力抗争
しかし、武こそが力の拠り所である武臣政権では、政権内の権力を巡り仲間同士の抗争が続きます。以下は時系列で見てみましょう。
①李高:李義方と鄭仲夫の仲間で大将軍衛尉卿となるが、翌1171年に自らが国王の座を狙って有力寺院の僧侶と密議をしたが、李義方らに計画が漏れ殺害。
②李義方:李高死後に武臣政権の主導権を掌握、ところが文臣と同様に娘を王妃に送り込んで外戚の地位を狙い同志の鄭仲夫によって殺害。
③鄭仲夫:李義方を倒して権力を握るが、私兵を集めて領地を増やし、権力の独占を図り部下の慶大升に殺害。
④慶大升:慶大升もまた私兵を「都房」という組織に再編、独裁的な政治を行って、残忍な刑罰を処したために人心を失う。部下の反乱が相次いで起こり、1183年には金光立・李義旼らの叛乱軍が慶大升に取って代わる。
⑤李義旼:初期武臣政権としては比較的長期の10年以上にわたって権力を維持し、官僚の人事権を掌握。しかし、その頃から私利私欲を貪るようになり人心が離れていく。
⑥崔忠献:弟の崔忠粋等と共に1196年に李義旼を殺害し権力を掌握。
この催忠献の時代に、ようやく武臣政権は長期安定政権を築く事に成功します。
政治的正当性を得る催政権
催忠献は権力を握ると、国王明宗を廃して弟の神宗を擁立し、弟の忠粋を粛正して独裁権力を得ます。しかし、忠献は武力一辺倒では、政治を動かせない事を熟知しており、儒者や文人の素養や行政知識を重んじて彼らを私邸に集めて武臣政権の行政能力を向上させました。
同時に私兵であった都房を数万レベルまで拡大して親衛隊として軍事基盤を強化します。
1209年には新たに教定都監が創設され、忠献は自らその長官である教定別監に就任し、武臣政権は高麗王朝の中の正式な組織である事が認められ、以後、武臣政権のトップは教定別監となる事が習慣になりました。
また、第一期と違い、催忠献政権は、崔瑀、崔沆、崔竩と父子継承であり、権力の世襲継承が見られます。ただ、3度が3度とも内紛は発生していて、父子継承が穏便に行われたわけではない点には注意が必要でしょう。
崔瑀の時代には、私邸に「政房」を設けて官僚人事を統括しつつ、書房を組織して私邸の警備を強化し、私兵の中から、騎馬隊として馬別抄を編成して権力基盤を強化し、武臣政権としては三別抄(左別抄・右別抄・神義軍からなる)を組織して治安活動や軍事活動を行い政権の存在価値を高めていきます。
モンゴルの台頭が武臣政権にトドメを刺す
ようやく安定を迎えた武臣政権ですが、北方では金が衰えてモンゴル帝国が勢力を拡大、高麗にも圧力が掛かります。そして、モンゴルの国使が高麗領内で殺害されたのを切っ掛けに1231年から大カーン、オゴデイの命令による高麗侵攻が開始されました。
武臣政権の催瑀は、自ら兵を率いてモンゴル軍を迎撃しますが、開城を占領されたために降伏し、貢物と奴隷を差し出します。
モンゴルは、高麗国内に72人の行政官、ダルガチを置く事を条件に高麗と和睦し北方に引き上げますが、催瑀はにわかに約束を反故にしダルガチ72人をすべて殺害、さらに国王と首都住民を引き連れて、京畿道沖にある江華島に朝廷を移し、モンゴルの襲来に備えます。
モンゴルは激怒して、再度高麗に攻め寄せますが、海を隔てた江華島に渡る船は全て武臣政権で確保してあり渡海出来ず、さらには、朝鮮式山城の防御力に苦しめられます。その為、モンゴルは、江華島攻略を諦め、補給を断つ事に方針転換、田畑を焼き払い、高麗人を殺害し奴隷にする徹底略奪に出ます。
江華島王朝は、和睦と抗戦のカードを繰り返して切りますが、結果はモンゴルを怒らせるだけでした。武官政権の徹底抗戦路線に不満を募らせた文官は、1258年、武臣で和平派だった金俊と結託して崔竩を暗殺。
これにより、62年間続いた催氏政権が終わりを告げました。崔竩暗殺後、文官の柳璥と武官の金俊はただちにモンゴルへ太子倎を入朝させてモンゴルと講和を結びます。しかし、この段階では武臣政権は金俊に移行しただけで残存しています。
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