武臣政権とは?朝鮮半島にも武士がいた!【まるっと世界史】

2020年11月7日


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武臣政権とは?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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武臣政権が100年の歴史に幕を下ろす

フビライ・ハーン モンゴル帝国

 

催氏を打倒して武臣政権を受け継いだ金俊ですが、実力者の催氏が消えた事で、第1期のように武臣同士で権力抗争が始まります。しかし金俊に抗争を切り抜ける力はなく、1268年、遂に反モンゴルの急先鋒、林衍(りんえん)に暗殺されました。

 

林衍は、大ハーンクビライに拝謁した直後、帰国して即位した元宗を廃し、元宗の弟の王淐を擁立してクーデターを決行します。しかし、モンゴルに人質として滞在していた世子(じん)(忠烈)がクビライから援軍を受けて江華島に攻め込みクーデターは失敗しました。

 

林衍は背中の腫物が元で急死し、息子の林惟茂(りんいぼう)が武臣政権を引き継ぎますが、1270年にはモンゴルの支援を受けた文班の洪文系、宋松礼に殺害され100年続いた武臣政権は終焉を迎えるのです。

 



三別抄の戦い

最後まで戦い抜く張悌(ちょうてい)兵士モブ

 

武臣政権が崩壊すると、傀儡だった元宗は江華島から退去して開城に帰還し、クビライを後ろ盾として高麗王朝を王政復古させます。しかし、それは独立などではなくモンゴルの支配下の一地方政権としての復活でした。

 

その後の歴代の高麗王は、31代の恭愍王(きょういんおう)まで、全て王太子時代にモンゴル宮廷に人質として赴き、歴代モンゴル皇帝近辺での職務に従事しクビライ家の娘を(めと)って正室とし、帰国して即位するのが慣例となります。

 

一方、催氏政権の頃に整備された正規軍、三別抄は反モンゴルの気風が強く、武臣政権崩壊後の解散命令にも従いませんでした。やがて、武臣の裴仲孫が残存勢力を集め、高麗王室の傍流にあたる王温(おうおん)を擁立して江華島を脱出、朝鮮半島西南部の珍島(ちんど)を根拠として高麗国を自称し抵抗します。

 

しかし、三別抄もまた内部抗争で揺れており、一枚岩にはなれず、必死の抵抗も空しく、1271年中に珍島が陥落。残存兵力が済州島にまで落ち延びますが、1273年までにモンゴルの攻撃を受けて滅亡しました。

 

日本の武士との共通点と相違点

島清興(島左近)

 

1170年から1270年までの武臣政権は、隣国日本で成立していた平氏政権や鎌倉幕府と時代的に近い事から武家政権と比較される事が多い存在です。

 

共通点としては、

佐久間盛政

 

・下級の存在と見なされていた武臣・武士が政権を握った。

・初期には政権が安定せずに権力者がめまぐるしく変化した。

・王位や皇位への介入をして従来の王権を弱体化させた。

・武官・武士政権とも従来の王権を滅ぼさなかった。

・権力者同士の骨肉の争いが起きた。

 

などがあり、相違点としては、

デタラメに強い本多忠勝

 

・武家政権が軍事的奉仕の見返りに御家人に土地を与えたのに対し武臣政権は基本俸給だけだった。

・鎌倉幕府が京都から離れ自立したのに対し武臣政権は開京の朝廷と一体化していた。

・武臣政権は低い身分の者の下克上機運が濃厚だが、武家の棟梁は摂関家や皇族の将軍など貴種を求め下克上の気風が薄い

 

このような相違点はありますが、武臣政権が倒された最大の要因はモンゴルの侵攻でした。もし、モンゴルの侵攻がなければ武臣政権は存続し封建制が選択され、武人優位の時代が続き、現在の朝鮮半島は、随分違う姿になっていたかも知れません。

 

世界史ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

文官優位の東アジア文明の中で、僅か100年とはいえ、武官優位の執権政治のようなものを築き上げた高麗朝武臣政権。もし、その時代が長く続き、日本のように御恩と奉公に基づく封建制が維持されていたら、近代の日韓関係はどのようになっていたのでしょうね?

 

参考:Wikipedia

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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