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この記事の目次
武臣政権が100年の歴史に幕を下ろす
催氏を打倒して武臣政権を受け継いだ金俊ですが、実力者の催氏が消えた事で、第1期のように武臣同士で権力抗争が始まります。しかし金俊に抗争を切り抜ける力はなく、1268年、遂に反モンゴルの急先鋒、林衍に暗殺されました。
林衍は、大ハーンクビライに拝謁した直後、帰国して即位した元宗を廃し、元宗の弟の王淐を擁立してクーデターを決行します。しかし、モンゴルに人質として滞在していた世子諶(忠烈王)がクビライから援軍を受けて江華島に攻め込みクーデターは失敗しました。
林衍は背中の腫物が元で急死し、息子の林惟茂が武臣政権を引き継ぎますが、1270年にはモンゴルの支援を受けた文班の洪文系、宋松礼に殺害され100年続いた武臣政権は終焉を迎えるのです。
三別抄の戦い
武臣政権が崩壊すると、傀儡だった元宗は江華島から退去して開城に帰還し、クビライを後ろ盾として高麗王朝を王政復古させます。しかし、それは独立などではなくモンゴルの支配下の一地方政権としての復活でした。
その後の歴代の高麗王は、31代の恭愍王まで、全て王太子時代にモンゴル宮廷に人質として赴き、歴代モンゴル皇帝近辺での職務に従事しクビライ家の娘を娶って正室とし、帰国して即位するのが慣例となります。
一方、催氏政権の頃に整備された正規軍、三別抄は反モンゴルの気風が強く、武臣政権崩壊後の解散命令にも従いませんでした。やがて、武臣の裴仲孫が残存勢力を集め、高麗王室の傍流にあたる王温を擁立して江華島を脱出、朝鮮半島西南部の珍島を根拠として高麗国を自称し抵抗します。
しかし、三別抄もまた内部抗争で揺れており、一枚岩にはなれず、必死の抵抗も空しく、1271年中に珍島が陥落。残存兵力が済州島にまで落ち延びますが、1273年までにモンゴルの攻撃を受けて滅亡しました。
日本の武士との共通点と相違点
1170年から1270年までの武臣政権は、隣国日本で成立していた平氏政権や鎌倉幕府と時代的に近い事から武家政権と比較される事が多い存在です。
共通点としては、
・下級の存在と見なされていた武臣・武士が政権を握った。
・初期には政権が安定せずに権力者がめまぐるしく変化した。
・王位や皇位への介入をして従来の王権を弱体化させた。
・武官・武士政権とも従来の王権を滅ぼさなかった。
・権力者同士の骨肉の争いが起きた。
などがあり、相違点としては、
・武家政権が軍事的奉仕の見返りに御家人に土地を与えたのに対し武臣政権は基本俸給だけだった。
・鎌倉幕府が京都から離れ自立したのに対し武臣政権は開京の朝廷と一体化していた。
・武臣政権は低い身分の者の下克上機運が濃厚だが、武家の棟梁は摂関家や皇族の将軍など貴種を求め下克上の気風が薄い
このような相違点はありますが、武臣政権が倒された最大の要因はモンゴルの侵攻でした。もし、モンゴルの侵攻がなければ武臣政権は存続し封建制が選択され、武人優位の時代が続き、現在の朝鮮半島は、随分違う姿になっていたかも知れません。
世界史ライターkawausoの独り言
文官優位の東アジア文明の中で、僅か100年とはいえ、武官優位の執権政治のようなものを築き上げた高麗朝武臣政権。もし、その時代が長く続き、日本のように御恩と奉公に基づく封建制が維持されていたら、近代の日韓関係はどのようになっていたのでしょうね?
参考:Wikipedia
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