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この記事の目次
荊州の土地
呉と戦う理由の一つに、荊州という場所の重要性があります。前述したように蜀は天然の要塞であり、守るのには向いている場所。しかしそこから他国を攻めるのもまた、難しい場所です。劉備が呉、そして魏と戦うには出入り口となる荊州の土地が必要不可欠なのです。
だからこそ劉備は大敗北しても尚、呉との戦いを諦めておらず、再戦するために白帝城に留まり、そして援軍の馬忠を喜んだのでは……?と考えました。
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失意の講和
しかしこの後に、劉備は孫権からの講和を受け入れます。そしてその後、病が発症して亡くなった……これは推測ですが、順番が逆だったのではないでしょうか。
呉との再戦を望んでいたが、夷陵で受けた傷が悪化して病を発症、そこに孫権からの講和の使者がやってきた。劉備は既に自分が長くないことを悟り、そして自分の寿命の内では呉との再戦はできないと判断。だから講和して、その後に病が発症したということにしたのでは、と考えました。
劉備は決してお人好しでも、誰かに頼ってばかりの人物でもありません。寧ろ強かであり、物事の判断力も長けていると思います。そんな劉備がどうして夷陵の戦いを起こしたのか、そして起こして帰ってこなかったのか。
更にはどうして講和したのか……それを最期まで諦めず、そして尚「自分にはもうできない」と判断したと思うと……何だか、込み上げるものがありますね。
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三国志ライター センのひとりごと
今回は考察というか、やや妄想が過多な話になってしまいましたね。個人的には策略家で、強かで、何だか分からないパワーを秘めた劉備が筆者は好きです。そんな劉備をイメージしながら考察してみましたが、いかがだったでしょうか。
では筆者はこれにて、三国志の更なる沼の深みに望もうと思います……とぷん。
参考文献:蜀書先主伝 馬忠伝
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