李白「蜀道難」
どのくらい桟道の建設や通行が危険だったかは唐の時代の詩人「李白」の「蜀道難」という詩で表現されています。こちらは意訳で省略していますが、
「蜀道の困難なことは晴天に登るより難しい。地が崩れ、山は砕け、そこを行く兵士たちはことごとく倒れた。それゆえ人々は天に上るために梯子と吊り橋を作ったのだ。」
これは蜀の地へ向かう困難さを書いた詩で、その道の過酷さも表現されています。「蜀道難」はものすごく有名な詩なので、是非完全版を調べてみてください。
その後の蜀道
その後も桟道は蜀への道として交易、そして戦乱の舞台となり、そのたびに破壊され、また再建されていきました。ただ、明の時代末期には蜀の地域は戦乱などで荒廃し、人口も流出したため、桟道は荒廃していました。それが再び再建されたのは次の王朝「清」の時代で、重要な道として20世紀初頭まで使われることになります。
現在の桟道
1937年になると、桟道のある地域に近代的な道路が開通しました。1943年にはその道路は関中まで到達し、蜀の桟道は交通の要としての役割を終えました。桟道はそのまま朽ちたり、忘れられたりしたのですが、近年になるとその価値が見直されます。現在では観光のために整備されたり、文化的歴史的価値の為保存されたりしています。
また、蜀の桟道を「世界遺産」に登録しようという動きが現地であるそうです。
三国志ライターみうらの独り言
桟道は通行するのも怖いのですが、それ以上に作り方が大変危険です。当時の人は命がけで工事をしたわけで、本当に頭が下がりますね。日本にもいくつか桟道のような道があるそうで、是非見てみたいものです。
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