王や皇帝が住んでいる場所を帝都や王都と言います。
例えば蜀の帝都は成都という土地でした。帝都は支配者が住む場所なので軍事力で守られ一番安全な場所のように感じますが、蜀の帝都に限っていえば、かなりヤバイ場所だったようです。
この記事の目次
蜀の帝都はどのようにヤバイのか?ズバリ
では、蜀の帝都である成都がいかにヤバいのか?をザックリ解説します。
1 | 西暦223年成都に隣接する漢嘉太守黄元がクーデター(未遂) |
2 | 諸葛亮死後、成都に近い越巂郡で異民族の勢力が拡大。太守も恐れて郡内に入れず |
3 | 西暦240年将軍向寵が漢嘉の異民族を討伐する途中に戦死 |
4 | 西暦240年蜀は異民族対策のプロ張嶷を送り込んで越巂郡平定。 |
5 | 漢嘉郡には成都に通じる旧道があったが旄牛族が割拠し使用不能。張嶷が旄牛族を懐柔し旧道が使用可能になる |
このように成都近隣の漢嘉郡や越巂郡では、黄元のクーデターや異民族反乱が起きていて、将軍向寵が戦死したり、道路があっても異民族の力に怯えて使用できず遠回りするなど統治に支障を来している事が分かります。
では、以後はより詳しく成都のヤバさについて解説していきましょう。
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劉禅危機一髪!黄元クーデター
西暦223年、蜀帝劉備は夷陵の戦いで大敗。白帝城に逃げ込み心痛から病に伏します。
やがて劉備は危篤状態となり、成都を守っていた諸葛亮も白帝城に見舞いに向かいました。
この頃、漢嘉太守だった黄元という人物は理由不明ですが諸葛亮と不仲でした。劉備が死ねば、政権は劉禅の後見である諸葛孔明が握り俺は排除されるに違いない。
そう考えた黄元は成都に皇太子劉禅がいて、警備も手薄である事を狙いクーデターを決行します。
黄元は漢嘉郡から北上して臨邛城を焼き払って成都を窺う様子を見せますが、成都には、益州治中従事の楊洪という傑物がいて、劉禅に陳曶・鄭綽を派遣して黄元を迎撃させるように進言。
失敗を悟り長江を遡上して呉に逃れようとした黄元を、陳曶・鄭綽が南安で捕縛。成都に送り斬首します。
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名将向寵、漢嘉郡で討死
さて、成都の隣にある漢嘉郡は、諸葛亮の死後に異民族の活動が活発化します。そこで、向寵という将軍が異民族討伐に向かいますが、その途中で戦死を遂げました。
あっさり描写なので、大した事ない将軍なのかと思いきやそうではなく、向寵は夷陵の敗戦では、自軍を無傷で退却させたとして劉備に賞賛され、劉禅の死後も諸葛亮に目を掛けられ近衛兵を司る中護軍に任命されています。
そんな実力派将軍が異民族を討伐しようとして戦死、それも成都からそんなに離れていない場所でした。向寵がなんという異民族に殺害されたか書いてはいませんが、時期的に漢嘉郡に勢力を伸ばしていた旄牛族と思われます。これはかなりシリアスでデンジャラスな事態ではないでしょうか?
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張嶷が越巂郡平定
向寵の戦死は、史書には大きく扱われていませんが、蜀政権には深刻なインパクトを与えたようです。それというのも同年、蜀政権は異民族対策のプロである張嶷を異民族の勢力が伸びて来た越巂郡に派遣し、蜀に従わない蘇祁族の族長冬逢と弟隗渠を計略を用いて殺害し郡を平定させているからです。
この越巂郡も成都には近いのですが、劉備死後に混乱した南中に負けず劣らず異民族の勢力が強く、蜀政権の派遣した太守は郡治に入る事も出来ない有様でした。蜀王朝としては張嶷を派遣する事が帝都の安定にも繋がると考えたのでしょう。
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