危険な道「蜀の桟道」はどうやって作る?どう使った?

2021年6月28日


 

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祁山、街亭

 

「蜀の桟道」とは関中から「秦嶺山脈(しんれいさんみゃく)」を越え、成都にたどり着くまでの道を示します。この道は断崖絶壁にへばりつくように作られたもので、とても危険な道でした。

 

はじ三倶楽部 スマホの誤変換でイライラする参加者(はてな)

 

しかし、蜀に入るにはその道を使うしかなく、戦略的に重要な道でもありました。その桟道はどのように作られたのでしょうか?

そしてどのような使われ方をしたのでしょうか?

 

今回の記事では探ってみます。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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桟道の作り方

 

桟道はとても狭く、人がすれ違うのが困難なほどです。その道は断崖絶壁に穴をあけ、そこに杭を打ち込み、その杭の上に板を敷くことで出来上がります。文章で書くと簡単ですが、実際は工事のための足場などもありません。その為、断崖によじ登り、穴をあけ、また下り、また上り、という風に実に地道に、危険な方法で作られていたようです。

 

前人未到のルートで蜀にたどり着いた鄧艾(トウ艾)

 

三国志」では魏の「鄧艾(とうがい)」が蜀攻めの際に桟道を作りながら進軍しました。この時崖から落ち、命を落とすものが多数いたそうです。

 

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トウ艾

 

蜀の桟道の成り立ち

祁山、街亭

 

桟道の成り立ちは紀元前の戦国時代、秦の恵文(けいぶんおう)の時代にさかのぼります。当時の蜀には「巴蜀(はしょく)」と言われる国が独自の文化を持っていました。恵文王は豊かな土地を持つ蜀を征服しようと計画していましたが、蜀の地は天然の要害に囲まれ、道も無く、容易に攻めることは出来ません。

 

そこで恵文王は蜀に友好の証に「黄金の牛」を贈ると持ちかけます。しかし、その牛を運ぶには交通の便が悪すぎます。そこで蜀の王はその牛を運ぶために桟道を整備したのです。恵文王はその道を使って蜀を攻め、征服することに成功します。

 

劉邦、左遷され桟道を焼く

劉邦と項羽

 

秦の時代の末期、劉邦(りゅうほう)の事を警戒する項羽(こうう)は劉邦を中央から遠ざけることを計画しました。そこで恩賞とみせかけ、蜀の王に任命します。当時の蜀は流刑地とみなされる僻地でした。蜀の地は中国の「左」に位置するので、「左」に「遷す(うつす)」でこれが「左遷」の語源となりました。

 

左遷される劉邦

 

劉邦は蜀に赴く際、軍師「張良(ちょうりょう)」の助言に従って桟道を焼きました。これは「攻め上る気はない」という意思表示と、外部への情報の漏えいを防ぐためでもありました。

 

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楚漢戦争

 

諸葛亮、桟道を整備し、北伐に赴く

四輪車に乗る孔明

 

劉備(りゅうび)が蜀を支配するようになると再び桟道は重要度を増します。劉備の軍師諸葛亮(しょかつりょう)は魏と戦う「北伐」を度々計画します。その際の軍を動かすには桟道は不可欠でした。その為、諸葛亮は桟道を整備し、北伐を実行に移します。

 

三国志 剣閣のお城

 

また、要衝の地である大剣山周辺に「剣門(けんもん)」と言われる関を作り、守りの要としました。その周辺には30里にもわたる桟道が整備されていたようです。

 

仲の悪い魏延と楊儀

 

諸葛亮の死後に魏延(ぎえん)楊儀(ようぎ)の争いの舞台となりました。魏延は楊儀の動きを封じるために桟道を焼きましたが、結局は殺されてしまいました。

 

魏延特集

 

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みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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