漢族というのは儒教の影響で自分の身体に傷をつけるのを親不孝として嫌う。
でも、異民族ではそうではないようだ。曹操の配下に倉慈という人物がいて大和年間(227年~233年)に敦煌太守になった。後漢が衰えて敦煌太守は20年間空位だったのですでに官僚制は形骸化し、役職は有力豪族の持ち回りになっていた。
また、貧富の差も激しかった。倉慈は豪族の押さえつけと貧民救済、さらに土地の再配分を実施して多くの貧農を救った。色々の功績があり、倉慈は漢族、非漢族の双方に慕われ、数年後に現職のまま死ぬと漢族は遺影を描いて崇め非漢族は刃物で自分の顔に傷をつけ、血の忠誠の証としたそうです。敦煌あたりの異民族は忠誠の証に顔に傷をつけるんだね。