NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は12月18日に最終回を迎えました。その衝撃のラストは大河ドラマの語り草となるでしょうが、その幕間に三浦義村の魂の絶叫がありましたね。
三浦一族は義村の死後一度滅びるが…
義時とサシでの酒宴で「お前に執権は無理だ」と言われた義村はコンプレックスを爆発。「お前に出来て俺に出来ないわけがない!俺はお前を超えてやる」と腹の底をさらけ出しました。義時の死後も15年存命だった義村ですが、義村没後、息子の三浦泰村は弟で反北条の光村にひきずられ北条家の外戚となった安達泰盛に攻め込まれて宝治合戦で一族は滅亡しました。
義村の娘、矢部禅尼より執権が出まくり
ああ、これでコウモリ野郎三浦の血も終わりかと思いきや女系において義村の執念は生き続けます。義村の娘で北条泰時に嫁いだ初(矢部禅尼)が産んだ子孫が4代経時5代時頼、8代時宗、9代貞時14代高時と幕府執権として鎌倉の頂点に立ったのです。
矢部禅尼の子孫お万
矢部禅尼は、その後泰時と離婚し佐原盛連と再婚して蘆名光盛、三浦盛時、新宮時連を産みますが、この中の三浦盛時が宝治合戦で滅亡した三浦氏を再興しました。さて、それから300年後、この三浦宗家の流れを汲む北条氏隆に娘が生まれ、お万と名付けられます。
お万は家康の側室となり徳川吉宗や徳川慶喜の祖に
お万は誕生後に戦争で家が没落、駿河国大平村の郷士、星谷縫殿右衛門に養育され文禄2年(1593年)三島で江川英長の養女として家康に挨拶した所で見初められ側室になります。お万は紀州藩主となる徳川頼宣、水戸藩主となる徳川頼房を出産しました。
徳川頼宣の孫は徳川幕府の8代将軍になった徳川吉宗で、水戸頼房の系統からは15代将軍、徳川慶喜が出ているほか女系では島津斉彬や鍋島直正まで繋がっています。義村の「俺は義時を超える発言」は600年を経過して達成されたのです。
江戸幕府を倒した大江広元の子孫
さて、三浦義村とは直接対決する事はありませんでしたが、幕府重臣、大江広元の遠い子孫は中国の覇者毛利元就です。毛利家は幕末に至って尊王攘夷運動が盛んになり、薩摩藩と共に徳川慶喜が率いる幕府を倒してしまいました。
そうなると最終的に一番子孫がスゴイのは大江殿という事になるんですかね?
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