関羽は荊州にある襄陽を攻めて敗北し、孫権軍に捕らえられて処刑されました。その後、関羽の首は曹操の元へと送られています。
三国志演義では孫権が劉備に恨まれるのを避けるために曹操へ送ったとありますが、孫権はしたたかさと視野の広さを兼ね備えた人物だと筆者は考えているので、別な目的があったと推察します。
今回は関羽の首の価値、そしてそれを対価に孫権は何を手にしたのか新しい説を考えてみましたのでお付き合いください。
死体はキレイな状態が基本
まずは首だけを他国に送るという行動について注目をしてみます。古代中国では遺体は完璧な状態(手足や首など欠損がない)で葬るという考え方が一般的で、そのために土葬を行っていました。
戦争では首級を挙げることで報奨がもらえるので完璧な状態での埋葬は不可能なのですが、戦場の死体処理や獲った首の腐敗などを考慮すると首と身体は比較的近い場所で葬られたと考えられます。
しかし、関羽の場合は遥か遠方に送られているわけです。もしかすると関羽が死後に「首を返せ」と化けて出た話も風習に反しているからこそ生まれたのかもしれません。
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塩は貴重品
正史には細かな記載がありませんが、関羽の首を曹操のもとへ運搬するには塩漬けが不可欠だったと思われます。関羽が処刑されたのは冬頃なので簡単に腐敗はしなかったかもしれませんが、関羽と判別できなければ意味がないので万全を期して塩漬けにしたと予想します。
ただ、当時の塩は貴重品で、劉備は司塩校尉という役職を設けて専売で利益を出すほどでした。それを少量とはいえ敵将に使うのは、それに見合う対価があったと考えられます。ちなみに現在の中国には5つの塩の産地があります。
仮に219年頃も同じ場所で塩が取れていたとするなら、曹操は揚州北部と関羽の出生地である河東郡解県の塩湖で、劉備は益州において(塩分濃度の高い地下水を汲み上げて塩を生成する)生産が可能だったので塩は大量にあったでしょう。
それに対して当時の孫権領では会稽郡くらいしか産地はありません。銅山があり貨幣経済が充実していたので貿易によって入手していた可能性はありますが、やはり希少なものだったはず。
孫権の漢王朝復興プラン
かつて魯粛は孫権に帝位に就くよう勧め、当時の孫権は漢王朝を救うことが優先と答えました。後に情勢の変化によって皇帝に即位しますが、もともとは漢王朝復興のプランを考えていたと予想して考えていきます。
孫権は赤壁の戦いから217年ころまで揚州北部で曹操軍と争っていますが、高い確率で勝利を収めています。しかし、揚州からでは天子のいる許都まで遠く、国力において圧倒的優位な立場にある曹操軍を切り崩すのも難しい。
そうなると許都への急襲くらいしか手段がありませんが、その際の重要拠点となるのが荊州です。当初、劉備は益州平定後に荊州を返還すると約束しましたが、結局あれこれと言い訳をしてうやむやにされます。
そこで孫権は大きく方向を変え、曹操に臣従する形で和睦。荊州奪還に力を注ぎます。
魯粛と呂蒙の活躍で南郡の半分は回収しましたが、長沙の各地では関羽と通じた者たちが謀反を起こすなど情勢は不安定。
なんとか関羽を排除したい孫権ですが、劉備と戦えば曹操が得をするので容易に争うわけにもいきません。ひとまず牽制も兼ねて曹操に「皇帝に即位してみては?」と提案します。
曹操領内では反乱が多発していたので、曹操が皇帝になったことを糾弾し、うまく扇動すれば許都急襲も狙えるかもしれません。が、曹操もそこまで軽率ではないので失敗に終わります。
関羽の首の価値
孫権は関羽と曹操を争わせることで荊州奪還を狙います。そのために、まずは合肥方面の曹操領に侵攻し、さらに呂蒙が関羽にへつらうことで敵意が無いことを示します。
また、断られるのを承知で諸葛瑾を遣わせて荊州返還を要求したり、縁談を持ちかけて傲慢な関羽を増長させました。思惑通り関羽は「孫権ごとき一喝すれば黙らせられる」と油断します。
さらに関羽の目が樊城に向かうと援軍を申し入れ、調子に乗った関羽が孫権領内から軍需物資を強奪しても大事にしないなど徹底して下手に出ることで完全に警戒を解きました。あとは機を見て南郡を奪えば目的達成ですが、ここは慎重になる必要があります。荊州奪還後に曹操と争うことになっては意味がないからです。
孫権にとって嬉しい誤算は関羽が予想以上に善戦し、曹操が遷都を考えるほどに精神的なプレッシャーをかけたことでした。危険を感じた曹操は荊州の領有権という対価をぶら下げて孫権に同盟を持ちかけます。
つまり、関羽の首と荊州が等価になったのです。ただ、その後のプランも考えていた孫権は領有権とは別に正式に将軍位がほしいと曹操に交渉します。
関羽の首で得たもの
曹操から承諾を得た孫権は盟約に従って背後を脅かすと関羽の退路を断ち、その身を捕らえて処刑します。そしてその首を曹操に送り、しっかりと約束を果たすよう促したのです。
関羽の首と引き換えに正式に荊州刺史と驃騎将軍の地位を獲得した孫権は、漢王朝復興計画を一歩前と進めたのです。ただ、自らの計画の礎となった関羽にせめてもの敬意をということで残った身体は丁重に葬りました。
将軍位を得た理由
孫権は赤壁の戦いの後に劉備の上奏によって車騎将軍に任じられました。ただ、普通に考えれば曹操が認めるはずがないので、漢王朝から得た正式な官位ではなかった可能性があります。
本来、車騎将軍や驃騎将軍といった二品官の将軍位は幕府を開く権限があるのですが、漢王朝復興を掲げる孫権にとっては正式な将軍位こそが最も重要だったのです。
それによって反董卓連合軍のように反乱分子と迎合して曹操包囲網を敷くこともできたかもしれませんし、仮に劉備と天下を二分した場合も「自称」の漢中王よりも孫権の方が影響力が持てることは間違いありません。
孫権の誤算
孫権にとって意外だったのは曹操が早くに没したこと、そして曹丕がすぐに皇帝に即位したことでしょう。その結果、驃騎将軍の位は形骸化し、漢王朝復興プランも潰えました。
その後も孫権は時勢を見ながら魏、蜀と同盟相手を乗り換えながら名声を高めていき最終的に臣下たちの推薦もあって皇帝に即位します。
三国志ライターTKの独り言
ここにも様々な思惑があったのかもしれません。以上はあくまでも筆者の想像ですが、孫権になんらかの思惑がなければ関羽は斬首だけで終わるか、首や遺体は劉備のもとに送っていたでしょう。そうなればその後の展開も変わっていたのかもしれません。
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