本多忠勝の墓はどこにある?NHK大河ドラマ「どうする家康」でも活躍する徳川の猛将の生涯

2023年3月14日


本多忠勝

 

これまでに本多忠勝(ほんだ ただかつ)について取り上げてきました。これまでの記事の内容は戦いぶりや逸話に関するものが中心でしたが、今回は本多忠勝の墓について取り上げます。この記事の前半でこれまでの記事から本多忠勝について振り返ります。後半では本多忠勝の墓の場所について紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



本多忠勝とはどんな人?

イケメンすぎる本多忠勝

 

 

本多忠勝は1548年に三河国で生まれました。初陣は1560年の桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい
)
で、今川義元(いまがわ よしもと
)
の家臣として戦っていました。今川義元が戦死すると徳川家康(とくがわいえやす)の家臣となります。家康の家臣の中で、井伊直政(いい なおまさ
)
榊原康政(さかきばら やすまさ
)
酒井忠次(さかい ただつぐ
)
とともに徳川四天王の一人となりました。

 

初陣以降の戦いで最前線にいるにもかかわらず、かすり傷を一切負わなかったという逸話も語り継がれています。

 

本多忠勝の戦いについて、姉川の戦い(あねがわのたたかい
)
で、徳川軍と比べて圧倒的に有利な1万の朝倉軍を切り崩したり、難攻不落の高天神上の奪還することに成功したりしました。徳川勢の敗走が強調される三方ヶ原の戦いで、忠勝は武田軍を混乱させました。

 

1590年に徳川家康が関東地方に移ると、忠勝は家康とともに関東地方に移りました。大多喜城(現在の千葉県)を拠点とします。1600年の関ヶ原の戦いでは、家康の本陣にいました。工作活動で活躍し、西軍を東軍の味方にすることに成功し、この活躍が認められて伊勢国桑名藩の藩主になりました。

 

晩年は目の病気を患うようになり、1609年に家督を譲りました。翌年に1610年に病気により死亡しました。

 

 

 

本多忠勝の墓はどこにある?良玄寺へのアクセス方法

 

 

本多忠勝の墓は2箇所あります。まず、1箇所目は千葉県夷隅郡大多喜にある良玄寺です。1590年、徳川家康が関東地方に移ったことに伴い、本多忠勝も家臣として関東地方に移りました。

 

本多忠勝は関東地方に移ったとき上総国の大多喜城の城主になりました。大多喜城の城主になったとき、菩提寺として良玄寺を建立しました。良玄寺へのアクセスはいすみ鉄道が便利です。大多喜から歩いて行ける場所にあります。

 

関連記事:本多忠勝の身長はどれくらい?愛用の蜻蛉切や黒糸威胴丸具足から身長推測

 

 

三重県桑名市の浄土寺へのアクセス方法

 

 

次に2箇所目の墓について取り上げます。2箇所目は三重県桑名市の浄土寺です。浄土寺は1049年に建てられた浄土宗の寺です。関ヶ原の戦い後、忠勝は大多喜城から桑名藩に移り、桑名藩10万石の藩主となりました。桑名藩の藩主になったときに忠勝の菩提寺になりました。

 

地元では、浄土寺にまつわる幽霊飴の話が伝えられています。現在、毎年8月23・24日の地蔵盆で幽霊飴が売られています。桑名市の浄土寺へのアクセスは近鉄・JR桑名駅から徒歩14分、バスで徒歩4分です。

 

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

 

今回は本多忠勝の墓について取り上げました。この記事の前半では本多忠勝について、後半では本多忠勝の墓を紹介しました。この記事を通して本多忠勝の墓が2箇所あることが分かりました。本多忠勝は桑名藩で病気のため死亡しました。浄土寺で火葬されましたが、浄土寺と良玄寺の2箇所に分骨されています。いずれの寺院にも本多忠勝の墓であることを示す墓標などが建っているので分かりやすいかと思います。

 

本多忠勝について戦で傷を負わず勝ち続けてきましたが、本多忠勝が死亡する数日前の逸話が残されています。彫刻刀で自分の持ち物に名前を彫っていました。彫刻刀で彫っていたときに、本多忠勝は誤って手を切りました。

 

忠勝はこれまでの戦いでかすり傷すら負ったことがなく勝ち続けてきたのに、誤って手を切ったのを見てもう終わりだとつぶやきました。その数日後に死亡しました。

 

今後、戦国武将とお墓の関係については高野山に注目したいと思います。高野山にはかつて敵対関係だった武田信玄(たけだしんげん)上杉謙信(うえすぎけんしん)織田信長(おだのぶながな)明智光秀(あけちみつひで)、信長と敵対した武将たちの墓があるといわれています。

 

今後、高野山にある戦国武将の墓について注目したいと思います。また、戦国武将が高野山に墓を建てた経緯や動機についても注目したいと思います。

 

 

 

▼こちらもどうぞ

【真田丸特集】徳川三傑・本多忠勝と蜀の五虎将軍・張飛を対比してみた

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
オフィス樋口

オフィス樋口

自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

-外部配信