朝倉義景が将軍を奉じて上洛しなかったのは勇気がないからではない![知り過ぎた義景の悲劇]

2023年3月24日


信長包囲網を失敗する朝倉義景

 

戦国大名の中で朝倉義景(あさくらよしかげ)についての評価は決して高いものではありません。特に足利義昭(あしかがよしあき)を擁していながら再三の義昭の上洛要求にも応じず、結局は義昭に逃げられて、織田信長(おだのぶなが)の上洛を許してしまった経緯では、優柔不断な無能者呼ばわりです。

 

滅びる朝倉義景一族

 

しかし、その評価は正当でしょうか?

今回は織田信長中心史観を離れ、朝倉義景が上洛しなかった本当の理由を考えてみます。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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将軍元気で留守がいい

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

永禄(えいろく)11年(1568年)織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たします。日本史区分では、この歳から中世と近世を分けたりしますので信長の上洛は象徴的な意味を持っていると言えるでしょう。

 

しかし、戦国時代を生きていた人々に織田信長の上洛は画期的な出来事として映ったでしょうか?

 

三好三人衆

 

例えば上洛前、三好三人衆(みよしさんにんしゅう)が擁していた14代将軍の足利義栄(あしかがよしひで)は将軍宣下を受けていたものの京都に入る事は出来ませんでした。

 

足利義輝

 

そればかりか、三好三人衆が殺害した13代将軍足利義輝(あしかがよしてる)は、三好長慶(みよしながよし)に京都を追い払われ近江国の朽木で5年間も生活しており京都に将軍不在の状況が続いています。でも、政治は三好長慶により滞りなく進み、朝廷も義輝よりも長慶を頼りにしました。

 

京都御所

 

つまり、織田信長上洛前の状況では、将軍は死んだら困りますが、健在であれば別に京にいなくても天下は回る「将軍元気で留守がいい」状態であったのです。この状態を信長よりもずっと近くで観察していた朝倉義景が上洛という言葉に消極的だったのは無理もないでしょう。

 

朝倉義景

 

(公方様は健在であるのに、さらに義昭様を担いで上洛など薪を担いで火に飛び込むようなものじゃ、危うくてかなわん)義景は、そんな風に考えていたのかも知れません。

 

関連記事:足利義栄とはどんな人?影が薄い室町幕府最短在位将軍

 

 



半世紀前に破綻していた将軍上洛

和宮が嫁入り時の行列(将軍の上洛)女性

 

足利将軍を奉じての上洛は戦国時代全体を見ると信長だけではありません。すでに中国の大守護大名、大内義興(おおうちよしおき)が1508年に足利義尹を擁して上洛していました。

 

しかし、当時京都には将軍足利義澄(あしかがよしずみ)細川澄元(ほそかわすみもと)に補佐されて存在していたので、義興は細川高国(ほそかわたかくに)と手を組み、足利義澄と細川政元を追い払う事に成功します。

 

炎上する城a(モブ)

 

ところが、ここからは泥沼になり、細川澄元は三好之長と再三にわたり京都を脅かし、奈良東大寺のような大寺院の荘園返還の訴えに苦しみ、本拠地の周防では新興の出雲の尼子経久(あまごつねひさ)が勢力を伸ばし義興を悩ませました。

 

そして、極め付きには当然というか、細川高国や足利義植(あしかがよしたね)義尹(よしただ))と不仲になり、1518年、義興は10年間滞在した京都を後にしたのです。このように信長上洛の半世紀前に、将軍を擁して上洛するのは悪手である事が証明されていました。

 

 

朝倉義景は「歴史」から学んでいた

book-Suikoden(水滸伝-書類)

 

その頃、朝倉氏は越前の支配者になっていましたから、大内義興の顛末(てんまつ)は当主が代々父祖から見聞して知っていた事でしょう。大内義興の時代から半世紀は経過しましたが、今回も足利将軍2人の争いであり敵味方が入り乱れて京都が混乱するのは分かり切っていました。朝倉義景は、義昭を奉じての上洛などリスクが高いだけで成功しないと歴史から学んでいたかも知れません。

 

資金が豊富な織田信長

 

ところが、当時田舎国人だった尾張織田氏は、そこまで詳しい上洛の顛末を知らず、信長には将軍を擁して上洛が魅力的なプランに見えていたのです。善い意味で、歴史を知らない信長は虎の尾を踏む大冒険に出ようとしていました。

 

 

 

信長は悪手を克服し天下人になった

第三次信長包囲網 織田信長、石山本願寺、武田勝頼、毛利輝元、上杉謙信

 

足利義昭を奉じての上洛を成功させた信長ですが、安定していたのは最初だけでした。すぐに、三好三人衆が京都を奪い返そうと阿波から摂津に再上陸し、その騒動に大坂本願寺も加担し、信長が南下している間に、北では浅井・朝倉が連合して比叡山も加わり、京都を狙うなど大ピンチが連続して起こります。

 

信長包囲網を築き織田信長の邪魔をする足利義昭

 

そして、あれだけ苦労して擁立した将軍義昭ともすぐに不和となり、室町幕府の腐敗した行政組織に辟易し、結局は義昭を追放して室町幕府を滅亡させます。

 

大軍を率いて攻める武田勝頼

 

追放された足利義昭が信長追討を掲げると、武田信玄(たけだしんげん)武田勝頼(たけだかつより)上杉謙信(うえすぎけんしん)毛利元就(もうりもとなり)のようなビッグネームが信長に襲い掛かり、それに加えて外様の松永久秀(まつながひさひで)荒木村重(あらきむらしげ)

武田信玄を極端に恐れる織田信長

 

浅井長政(あさいながまさ)が途中で叛くという、大変なムリゲーを10年以上も続ける事になるのです。後世の私達はこれを、さすが戦国の風雲児、織田信長!と讃えてしまいがちですが、そもそもの大苦戦の原因が、義昭を奉じての上洛にある事に注意を向けてみると

 

朝まで三国志2017表情 kawausoさん03 怒

 

「そもそも信長のムリゲーは自分で()いた種であって自業自得じゃね?」

こんな感想が浮かんでもくるのです。

 

 

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

織田信長は、自身の無知ゆえにぶちまけた悪手に気づけず、襲い掛かる困難を必死で乗り越えて天下人であり続け、遂には不可能を可能にしてしまいました。この類まれな勝負強さと忍耐力と不屈の闘志こそが、理知的で慎重で謙虚に歴史に学んだ朝倉義景が、信長に滅ぼされた決定的な要因だったのかも知れません。

 

参考:新説の日本史 (SB新書) /河内 春人 (著)/亀田 俊和 (著)/ 矢部 健太郎 (著)/高尾 善希 (著)/町田 明広 (著)/& 1 その他

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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