足利義栄とはどんな人?影が薄い室町幕府最短在位将軍


 

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足利義政

 

足利幕府の将軍と言うと徳川将軍に比較しても影が薄いですが、それでも初代の足利尊氏(あしかがたかうじ)と応仁の乱時の足利義政(あしかがよしまさ)、それに剣豪将軍の足利義輝(あしかがよしあき)と最後の将軍、足利義昭(あしかがよしあき)は知られている方でしょう。

 

ですが、足利義輝と足利義昭の間に在位した14代将軍、足利義栄(あしかがよしひで)は御存じでしょうか?

今回は、在位1年に満たず病死した影薄い14代将軍、足利義栄について解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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永禄の政変後の将軍候補

三好三人衆

 

足利義栄は、天文7年(1538年)足利義冬(あしかがよしふゆ)の長男として阿波国那賀郡平島の平島館に誕生します。

 

義栄の父の足利義冬は、元の名前を足利義維(あしかがよしつな)と言い、三好元長・細川晴元と共に、兄で12代将軍の足利義晴(あしかがよしはる)を擁する細川高国(ほそかわたかくに)を打ち破り堺に幕府を開いて堺公方(さかいくぼう)になりますが、天文元年(1532年)に後見人の三好元長(みよしもとなが)が、裏切って足利義晴についた細川晴元により殺害され、力を失い阿波国に戻りここで義栄が生まれています。

 

そんなわけで、兄義晴の息子で将軍の足利義輝とは仲が悪く、それは息子の義栄にも受け継がれていました。ただ、義維は、周防に移動して阿波に戻った永禄6年(1563年)頃に中風(ちゅうぶ)になり身体が不自由になったので、義栄の後ろ盾としては頼りない存在でした。

足利義輝

 

しかし、永禄8年(1565年)5月19日、三好三人衆等と不仲になった将軍足利義輝が京都二条御所を襲撃されて殺害されます。永禄の政変です。義輝を殺害した三好三人衆、三好義継(みよしよしつぐ)松永久通(まつながひさみち)は当初、足利義冬を担ごうとしていましたが中風で将軍の任に堪えられないだろうと判断され足利義栄が将軍候補として擁立されました。義栄27歳の時です。

 

三好三人衆に担がれ畿内に入る

爆死する松永久秀

 

永禄8年11月、三好三人衆と松永久秀が権力抗争を開始すると義栄は久秀討伐令を出します。翌永禄9年6月には、三好三人衆方の篠原長房(しのはらながふさ)三好康長(みよしやすなが)に擁立されて淡路国へ渡海し、9月23日には摂津国越水城(せっつのくにこしみずじょう)へ、さらに冬の12月5日には、摂津国富田総持寺(とんだそうじじ)に、12月7日には普門寺城(ふもんじじょう)に入りました。

足利義昭

 

しかし、同じ頃には殺害された足利義輝の弟の覚慶が、義輝側近の一色藤長(いっしきふじなが)和田惟政(わだこれまさ)三淵藤英(みぶちふじひで)細川藤孝(ほそかわふじたか)等に救助され、近江国の野洲郡(やすぐん)矢島に御所を置いて、足利義秋(あしかがよしあき)と改名し、上洛の為に各地の大名に手紙を出しています。こうして父の代でも起きた、誰が正統将軍になるかのデッドヒートが繰り返される事になりました。

 

さて、将軍になるには前段階として従五位下左馬頭(じゅうごいげさまのかみ)に就任する必要がありましたが、永禄9年4月21日にはライバルの足利義秋が先に任官。義栄は、それより半年遅れて永禄9年12月24日に任官許可が出され、永禄10年1月5日に正式に叙任されます。

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

面白いのは、この段階で義秋は近江、義栄は摂津とどちらも京都には入っていないという事でした。この頃の京都は騒乱の只中にあったのです。

 

麒麟がくる

 

ライバル義昭を出し抜き将軍宣下を受ける

京都御所

 

永禄10年11月、義栄サイドは朝廷に対し将軍宣下(しょうぐんせんげ)を申請しますが、朝廷の要求する献金に応じられず当初は拒絶されます。しかし、その後、交渉は進展し永禄11年2月8日に朝廷から将軍宣下がなされ、ライバルの義秋に先んじて14代将軍に就任しました。

逃げ回る足利義昭

 

同じ頃、ライバルの義秋は「上洛(じょうらく)だ!上洛しないで将軍宣下なんて意味ない!」と、ムキになって武田、上杉、織田、斎藤、朝倉のような大名に上洛を要請しては、色よい返事を受けられないという足踏み状態でした。

 

その為、ライバルの義栄が摂津国に在国のまま将軍になったのは相当な衝撃だったらしく「俺の運が悪いのは名前が良くないせいだ!」として義秋の「秋」の字を季節の秋から、昭和の昭の字の「昭」に改めています。

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

しかし、征夷大将軍になった足利義栄は、三好三人衆と松永久秀が抗争を繰り返す京都に入れず、心労で背中に悪性の腫物(はれもの)が出来てしまいました。

 

志半ばで31歳で病死

 

永禄11年(1568年)9月、足利義昭を奉じて織田信長が上洛の動きを見せます。三人衆は畿内で信長と戦いますが、敗れて畿内の勢力を失い阿波に逃れます。もちろん、三人衆を後ろ盾にしている義栄も力を失い阿波に逃れていきますが、撤退のストレスで腫物が悪化し31歳で病死しました。

 

足利義栄の将軍在位期間は10カ月に満たず、歴代足利将軍でも最短です。死んだ月も、9月13日から10月22日まで幅があり、死去した場所も、摂津、阿波、淡路と諸説あります。足利義栄が死んだ事で将軍職は空位となり、そこに足利義昭が滑り込んで15代将軍に就任しました。

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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