『史記』は前漢(前202年~後8年)の歴史家である司馬遷が執筆した歴史書であり、本当の名称は『太史公書』と言いますが『史記』が有名なのでこの記事では『史記』で通します。
今では発掘史料を重視していますが、戦後間もないころの日本では中国との国交が回復されていなかったので、古代史の分野では『史記』を一級史料として使用していました。『史記』にはどんな特徴があるのでしょうか?今回は『史記』の特徴に関して解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
『史記』を著者は司馬遷ではない?
一般では『史記』の著者は司馬遷で通っています。しかし現存している『史記』の一部が彼の筆によるものではないと言われています。一部は司馬談の手によるものという近年の研究成果が出ています。司馬談は司馬遷の父です。
司馬遷が『史記』を執筆した動機が父が行っていた歴史書の編纂を受け継ぐためでした。司馬談が編纂していた歴史書とはおそらく、まだ未完成であった『史記』と考えられています。そうなると『史記』は司馬遷個人の独創的な書物でないということになります。
現在、考えられている仮説では全体の構成やコンセプトを司馬談が練って執筆していたが、途中で病気により亡くなったので息子の司馬遷が受け継いだとなっています。つまり司馬遷は『史記』の単独執筆者ではなく、共同執筆者であると同時に最終編纂者だったのでした。
司馬談が執筆した個所は?
それでは司馬談が執筆した個所はどこでしょうか?代表的なものは荊軻が秦王政(後の始皇帝)を暗殺しようとした「刺客列伝」です。『キングダム』では、まだ描かれていない内容です。『史記』の他の個所とは違い文学的な要素が非常に強いことから、司馬遷とは違う別人が書いた可能性が高く、そのため司馬談と見て間違いないと専門家の意見も一致しています。
『史記』執筆の動機は?
先ほど『史記』執筆の動機について、父の歴史書編纂を受け継ぐことと書きましたが、もう少し詳細に記します。前漢第7第皇帝の武帝は自分の権力の象徴として、「封禅の儀式」を行いました。この儀式については、研究が行われていますが、今日になっても解明されていません。
『史記』にも「封禅書」という項目はあるのですが、はっきり言って何も書いていません。司馬遷も「分かりません」と冷たく言い放っています。それどころか「封禅書」だけ全く関係無い話が出るので、後世の人物による偽作説が出ています。ただ言えることは、封禅の儀式は特別なイベントでした。司馬遷の父の司馬談は滅茶苦茶参加したかったようです。だが、理由は不明ですが参加出来ずにこの世を去ります。
横山光輝氏の『史記』では体調を崩したという設定になっていました。普通に考えたらそうだと思いますけど・・・・・・臨終の間際に司馬遷は父から『史記』の執筆の後を頼むことを言われて、引き継ぐことにしたそうです。
『春秋』のオマージュ?司馬遷自爆事件
司馬遷は執筆動機を聞かれた時にかなり矛盾する返答を返しています。ある日、同僚の壺遂と『史記』のことについて話していました。司馬遷はこの時にかつて孔子が執筆したと言われている『春秋』のようなものを書くと断言します。壺遂は孔子の『春秋』の執筆動機について尋ねます。ドヤ顔の司馬遷は「善悪の区別に決まっているじゃん!」と言い放ちます!
しかし壺遂から「孔子の時代は乱世であり名君もいない時代だ。今は名君(武帝)もいて、部下もしっかりしているんだ。それなのに孔子のマネなんかして何の意味があるんだ?」と言い返されます。
「違いますよ。『春秋』のマネじゃないですよ。オマージュですよ・・・・・・『春秋』と一緒にしないでください」とすねてしまいます。オマージュは冗談として司馬遷が勝手に自爆したのは事実でした。
この話はコントですか、とツッコミたくなりますね・・・・・・
前漢史ライター 晃の独り言 堀江貴文氏も愛読していた『史記』
以上が司馬遷の『史記』の特徴についての解説でした。『史記』で思い出すのはホリエモンこと、堀江貴文氏ですね。筆者が高校生の時に堀江氏が愛読していた書籍の話を聞いたことがありました。それが『史記』(徳間文庫)です。徳間文庫は全訳ではなく、抄訳といって重要な個所だけ翻訳したものでした。筆者が当時、住んでいた地域の書店でベストセラーになっていたことを覚えていいます。
興味がある人は一読してみてください。
※参考文献
・『「正史」はいかに書かれてきたか 中国の歴史書を読み解く』(大修館書店 2002年)
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上記の堀江氏の話について記憶している人はコメントをください
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