三国志の中でも非常に人気の高い武将・姜維。姜維は元々、魏の武将でしたが諸葛孔明に降伏し、大将軍へと出世します。
姜維が蜀へ降伏した際、尹賞も蜀に降伏。伊賞は蜀でどのような活躍をした人なのでしょうか。
馬遵の部下として魏に仕える尹賞
尹賞はいつ頃生まれ、どこが出生地なのか正史三国志には記載がなく、はじめて史書に登場するのは天水太守・馬遵に仕えた頃です。尹賞とは主簿の役職を馬遵から与えられ、仕事に励んでいきます。
尹賞の役職・主簿は主に帳簿・文章などを作成する職務。そのため伊賞がコツコツ真面目な仕事を得意としていたのかもしれません。尹賞は馬遵の元で仕事をしながら、同僚の姜維と知り合い、仲良くなっていきます。
蜀軍の北伐に巻き込まれる
蜀の丞相・諸葛孔明は228年(蜀の年号だと建興6年。魏の年号太和2年)漢中から蜀軍を率いて北伐を開始。諸葛孔明率いる蜀軍は祁山へ向かって軍勢を進軍させていきます。天水太守・馬遵は諸葛孔明が祁山へ向かって軍勢を進ませている時、たまたま天水の状況を見回っていました。
尹賞は姜維達と馬遵の巡察に随行します。馬遵は諸葛孔明率いる蜀軍に呼応して諸郡が寝返っている事を知り、伊賞や姜維達も蜀軍に寝返るのではないかと考え、彼らを捨てて上邦城へ向かって逃亡。伊賞達は馬遵が居なくなった事を知り、馬遵を追って上邦城に到着すると城門が閉まっていました。
そのため尹賞は馬遵へ「伊賞です。太守と一緒に随行していた姜維達もいます。城の中に入れてください!!」と呼びかけます。しかし馬遵は伊賞の呼びかけに応じることなく、城門を閉めたままでした。
蜀へ降伏する伊賞
伊賞達は上邦城に入れなかったため、姜維の提案で姜維の出身地・冀県へ向かいます。冀県に到着した伊賞達は落胆してしまいます。その理由は冀県も城門を閉じたまま、彼らがいくら呼び抱えても城門を閉じたままだったからです。
伊賞達は相談して、今後の身の振り方を協議。協議の結果、祁山に駐屯している諸葛孔明率いる蜀軍に降伏することに決めます。こうして伊賞達は蜀軍の元へ出頭し、降伏を受け入れてもらいます。
その後蜀軍は馬謖が街亭の戦いで、魏の名将・張郃に敗北してしまったため漢中へ撤退。伊賞達は蜀軍と一緒に漢中へ向かい、そのまま蜀に留まることになります。
蜀に降伏後どうなったの??
姜維は蜀に降伏後、将軍の位と侯の位を授かることになり、諸葛孔明に才能を認められて、とんとん拍子に出征していくことになります。「はじめての三国志」の読者の方なら今更説明されなくてもお分かりになっている方が多いと思います。
姜維と一緒に蜀へ降伏した伊賞はその後どうなったのでしょうか。伊賞は蜀に降伏した後、執金吾の位まで出世することになります。
執金吾の職に就く伊賞
執金吾とは魏の名軍師・賈詡も就いたことのある職ですが、一体どのような仕事をする役職なのでしょうか。
執金吾は宮中や首都を警備する仕事で、蜀で言うと皇帝・劉禅が住んでいる宮殿や成都を警備する職務です。この執金吾ですが、漢の時代ですと九卿と呼ばれる偉い地位で、蜀でもかなり上位クラスの重職だったと思われます。また後漢王朝の創始者・劉秀は「仕官するなら執金吾・妻にするなら陰麗華(劉秀の出身地南陽の超絶美少女として知られる女性)」と若い頃の将来の夢として人に語っていたそうです。
更に執金吾は日本でも有名な官職名で、関ヶ原の戦いで徳川家康に寝返った小早川秀秋の官職名として知られています。話が全然違う方向に逸れてしまったので戻します。伊賞は執金吾の重職に就き、姜維と共に蜀で活躍した人物でした。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は姜維と一緒に降伏した伊賞について紹介しました。実はもう一人彼らと一緒に蜀へ降伏した人物がいました。
その人物は梁緒という人物です。彼は伊賞・姜維と降伏した後、外交を司る仕事・大鴻臚の位へ出世。このように姜維と一緒に蜀へ仕えた三人は、各々出世を果たして蜀を支えた人物だったのです。
■参考文献 正史三国志蜀書など
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