日本中から賞賛されたテロリスト来島恒喜とは?

2023年4月29日


爆死する松永久秀

 

政治家を狙った事件に対しテロのレッテル貼りをする人が増えました。テロとは何か?そもそこ何を意味するのか?を検索もせず、深く考えず、政治家を狙えばとにかくテロだ!テロリストを賛美するな、心情に同情するな!同情するヤツも全部テロリスト~!と叫んでいます。しかし、今から130年前、まさに正真正銘のテロを起こして、当時の日本人に称えられた人がいました。今回はテロで日本を救ったテロリスト来島恒喜を解説します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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来島恒喜来歴

 

来島恒喜は安政6年(1860年)福岡藩士、来島又右エ門の次男として誕生します。その後、高場乱の興志塾に学び、1883年に上京し中江兆民にフランス語を学んだ後で、筑前共愛公衆会や頭山満率いる玄洋社に参加。この過程で藩閥に牛耳られている日本政治に反発を強め、小笠原諸島では朝鮮開化党の金玉均と過ごし朝鮮の政治改革について語っています。来島恒喜は、当時、日本が西洋列強と結んでいた不平等条約の改正にも強い関心を持っていました。

 

大隈重信が憲法違反の条約改正を開始

国会議事堂

 

そんな折、1889年(明治21年)黒田清隆内閣が日本の大審院(現在の最高裁)の判事や検事に外国人を登用しようとしている事実がイギリスのロンドンタイムス紙により明らかになります。これは、不平等条約である領事裁判権改正のバーターとして考えられたものでした。

大隈重信

 

領事裁判権とは、外国人が日本で罪を犯しても日本の司法で裁く事が出来ず、当該国の警察に引き渡される不平等条約です。当時の西洋列強は、よく分からない日本の刑法で自国民を裁かせる事に警戒感を持っていました。そこで黒田清隆内閣の大隈重信外務大臣は、大審院に外国人を登用する事で、列強の不信感を緩和しようとしたのです。

 

 

猛批判にもかかわらず条約署名を急ぐ大隈

君主論

 

しかし、大隈の提案は大日本帝国憲法に違反していました。そのため、黒田清隆内閣は、国民に秘密で条約調印を進めていたのです。これがイギリスの新聞に暴露されたため、国民世論は沸騰。ただちに条約を破棄し、黒田内閣は総辞職せよと迫ります。ところが、この期に及んでも頑固な大隈外相は条約調印を止めようとはせず、総理の黒田清隆も閣僚が離れているにもかかわらず、大隈と心中する覚悟で擁護します。

 

 

どうにもならない中、来島恒喜起つ

幕末 帝国議会

 

現在であれば、このような大事件は国会で審議され野党の集中攻撃を受けます。しかし、当時、日本には帝国議会(国会)はありませんでした。帝国議会は翌年の1890年に初めて開かれるのです。そのため、議論を使って黒田清隆内閣を批判するという手法は使えません。こうなると方法は強硬に条約を締結しようとする大隈外相を討つしかありませんでした。

 

このままでは我が国の司法に外国人が介入し、国家主権が侵されると考えた来島恒喜は、玄洋社に累が及ばないように退社すると、新調したモーニングを着用して購入した爆弾を蝙蝠傘の中に仕込み、1889年10月18日、外務省から帰る途中の大隈の馬車に爆弾を投げつけます。爆弾は馬車の中に入り、そこで爆発。大隈重信は緊急手術で右足を切断する大怪我を負い、外務大臣の仕事が不可能となり条約調印は白紙撤回されたのです。

 

 

自殺して完結した人生

切腹詐欺の徳川慶喜

 

来島は炎上する馬車を確認し、暗殺の成功を確信。その場で短刀で首を刺して自殺しました。しかし命を賭して条約調印を阻止した来島に対して多くの賞賛の声が寄せられ、故郷の葬儀では、政府に睨まれているにもかかわらず、5000名もの参列者が来たそうです。また、右足を奪われた大隈重信も、来島をテロリストとして非難するどころか、思想信条は違っても、それが蛮勇であろうと一命を賭して吾輩に立ち向かった事には感心すると述べ、代理人を派遣して来島の法要に参列しました。

 

 

テロの動機には、バカなモノもやむなきモノもある

内容に納得がいかないkawauso様

 

自分が命を狙った相手にさえ称えられる。そんなテロリストが明治時代にはいたのです。それは、来島のテロが個人的な事でなく、国の行く末を思っての事であり、かつ一命を賭した事に影響しているのでしょう。逆に、この間、岸田総理を狙った木村隆二容疑者のように、つまらない承認欲求を歪ませた男のテロ(というより威力業務妨害)を見てみれば、来島恒喜といかに違うかが分かるのではないでしょうか?テロは許さない!絶対悪で思考停止するのではなく、テロの背景、どうしてそこに至ったのかを考える事が重要です。それが結果的にテロを減らす事に繋がるからです。

 

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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