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[発見]曹操の墓の場所と発掘のきっかけ:村人が見つけた遺跡

2023年7月28日


 

 

曹操の墓

 

乱世の時代、曹操(そうそう)はどこに埋葬されたのでしょうか。

 

 

歴代皇帝の墓を暴こうとする韓遂の兵士

 

三国志の()を代表する人物だけに豪勢に葬られたのでしょうか、それとも墓荒しから守るためひっそりと佇んでいたのでしょうか。発掘から学者の調査までくわしく解説していきます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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西高穴村の村人が見つけた遺跡

曹操

 

三国時代の偉人の墓は中国人の間で長らく議論の的でした。曹操もその一人です。

 

死期を悟る曹操

 

当時、彼が天に召されると曹操の墓と噂される場所は72箇所もあったと言われています。墓荒らしから守るためでしょう。近代に入ると許昌(きょしょう)説、河北(かほく)説、安陽(あんよう)説、鶴壁(かくへき)説など様々な主張がなされました。2019年現在では「安陽県安豊郷西高穴村」の後漢時代の墓が曹操のものであると言われています。

 

審配(しんぱい)

 

発見される前、学者たちはずっと「漳河(しょうが)」の辺りが怪しいと睨んでいました。1998年4月、 漳河の南にある西高穴村で村人の徐玉超がある石碑を見つけました。そこには建武(けんむ)十一年(西暦345年)と書かれ、「魯潜」という偉い人のお墓だったのです。当時の軍のトップです。さらに魯潜の墓の表面には、こんな文字が刻まれていました。

 

「墓は高決橋より西に1420歩、南に170歩にあり、曹操の墓はその西北の角から西に43歩、北に250歩進んだところにある」これこそGPS並みに正確な曹操の墓の場所だったのです

 

 

 

曹操の墓と墓荒らし

三国志に出てくる海賊達 張伯路

 

学者たちが魯潜の墓に記された場所へ行ってみるとすでに墓荒らしに遭っていることがわかりました。エジプトのクフ王のピラミッドもたびたび墓荒らしに遭っていたことから、支配者の運命なのでしょう。実際には北朝時代の西暦386年から581年に荒らされたようです。

 

曹操のお墓(曹操高陵)

 

2009年。河南省の考古研究所が発掘調査に乗り出します。中には二号墓と幅40メートルもの墓へと続く道がありました。深いところは14メートルに達し、中央の墓の前後に2つずつ合計4つの分室も見つかったのです。

 

そして青銅の鎧や弓、雲母のかけら、鉄剣、絵の描かれた石など稀に見る美しい装飾が出土品に施されていました。保護や研究の価値が高い遺跡であることは一目瞭然でした。発掘は国家プロジェクトとなります

 

 

本当に曹操の墓なのか?

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

これだけの出土品がありながら、曹操の墓であるかどうか疑わしいと様々な議論が交わされました。墓荒らしから守るため72か所に墓を分散したり、学者の間でも候補地に4か所も上がっていたのですから当然です。

 

庶民、村人の家

 

また、曹操の墓の位置を示す遺跡の発見が専門家ではなく、普通の村人だったことも疑いの一つでした。つまり、専門家たちは村人の徐さんを信用していなかったのです。

 

水滸伝って何? 書類や本

 

出土した遺跡の数々は国が緻密に調査しました。歴史学、漢文学、考古学、古代文学のありとあらゆる専門家が集結、疑いのある個所を徹底的に調査し、ロジックに基づいて、研究されました。

 

そして、ついに西高穴村の出土品は後漢時代、もしくは魏国のものであると断定されたのです。さらに墓の規模も大きく、古代の町との関連性も深いことが判明しました。「年代」、「規模」、「古代の町」の3つの点から80パーセント以上の確率で曹操の墓であるというのが専門家たちが出した結論でした。

 

 

いまだに議論はやまない曹操の墓

曹操

 

こうして曹操の墓だろうという結論は出ましたが、疑わしい点がいくつか存在します。一つは「魏武」という文字がはっきりしないことです。北京師範大学の張国安博士は、その点において異論を唱えています。

 

曹操に降伏する教祖・張魯

 

二つ目は出土した場所が河南省であるという点です。曹操は河北のトップであったのだから、河北省にあるのが自然だと言うのです。つまり皇帝の墓としてふさわしくないと……。

 

また、曹操の娘である「曹憲」の墓が安徽省・亳州にあるのだから、河北省でなければ安徽省だと地元の河南省の人が主張しているのです。

 

三国志ライター上海くじらの独り言

三国志ライター 上海くじら

 

中国で曹操は統治に優れた偉大な人物であるとされ、尊敬されています。日本人の抱く曹操のイメージとは違うのです。

 

曹操のフリをして手紙を送るシーン

 

それだけに地元の河南省で発掘されたにも関わらず、地元の人は「曹操の墓ではない」と言っているのですから、奇妙ですね。いずれにしろ歴史ですから推測に過ぎません。

 

君主論と曹操

 

私見では曹操の墓は他にもあり、墓荒らしに遭わないよう曹一族だけが知る場所にひっそりと埋葬されたと考えています。いわゆる分祀です。

 

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