中国と言えば人口の多さが一番に思いつく人も多いと思います。
土地の広さもあり、民族の多さもあり、その人口は世界でもトップランクです。
しかしそんな中国でも人口が激減した時代があり、その人口減少の時代は黄巾の乱から始まっているのです。
今回はそんな中国の歴史的な人口減少を三国志の面から見ていきたいと思います。
中国の人口が大幅に減少した年代
中国の人口が大幅に減少した年代は大きく分けて四つほどあります。
それぞれ280年、764年、1006年、1717年の段階で大幅に人口減少しており、この年代の以前に大きな人口減少があったことが分かりますね。
因みに755年から763年に安史の乱が起こり、907年から960年に五代十国時代の乱世が続き、そして1700年前後と言えば明末清初の乱世の時代によって多くの戦争が起こりました。
そして280年というと中国再統一の年、つまり三国時代の終焉とも言える年と言えます。
三国時代というと広義では黄巾の乱の蜂起の年である184年から、280年までを言います。
つまり大雑把ですが黄巾の乱以後の年代を三国時代、と呼称しても差し支えないと思われます。
この黄巾の乱以後、どのような理由で人口減少が起こったかを考えていきましょう。
黄巾の乱の人口減少は人災か、天災か?
黄巾の乱が起こった当時、皇帝は霊帝という人物です。
彼は王朝の権威を取り戻すための資金稼ぎとして、官位の売買を始めます。
官位が売買されるようになるとそれを利用して高位の官位を手に入れるために地方では庶民に重税をかけるようになり、民の苦労は増えるばかり。
奇しくもこの頃、地方では天災による飢饉が続発していたことも相まって、庶民たちの苦しみは増すばかりでした。
このため自分たちを助けてくれる英雄の存在を渇望するようになり、そこから黄巾の乱、そして中華全土が乱れる乱世が始まっていきます。
黄巾の乱の前から、すでに天災が多く、それによる飢饉も起こっていました。
おそらくこれも人口減少に影響を及ぼしていると思われます。
では実際にどれほどの人口減少が起こったのか、それを数値にして見ていきましょう。
黄巾の乱以後の人工減少
細かい年代でどれくらい減ったのか知ることができないので、記録されている年代と人口で変化を見ていきます。
まず157年の人口は5,648万。
そして280年の人口が1,616万。
つまりこの三国時代の前後で約4,000万人もの人口が失われているということです。
これはいくら人口の多い中国と言えど、凄い数ですね。
この数値だけだと数が多すぎて分かりませんが、現在の日本の首都である東京を例にして考えて見ましょう。
東京は多くの人々が住まう大都市ですがその人口は約1200万人です。
つまり東京の人口の3分の1が失われてしまっているということです。
いかがでしょう、少しは想像が付いたでしょうか?
現代でもこれだけの人口が失われてしまっては経済が破綻どころか国まで破綻しかねません。
いかに天災や飢饉が起こっていたとしても、それほどの人口が失わるほどの凄惨な争いが繰り広げられる時代だったということです。
曹操の詠んだ詩からも分かる凄惨さ
三国志の英傑の一人である曹操の詠んだ詩に「蒿里行」という詩があります。何万人もが死に、野には白骨が散らばり、生き延びられたのは100人から1人しかいない。
それを思うだけで悲しみで腸が千切れそうだ、という当時の戦の凄惨さが伝わってくるような詩です。
悲惨な時代だからこそ人々は英雄を望み、そしてその人々から英雄が生まれた。
この時代を生きた曹操の魂がこもったような詩だと筆者は思っています。多くの人口が減少した、つまりいくつもの争いがあって人々が苦しんでいた。
だからこそ三国志では様々な英雄たちが現れて、この世界を自らでどうにかしようと時代に抗って生きてきたのではないでしょうか。
三国志ライター センの独り言
あらためて数字にして見ると、途方もない数の人々が亡くなっているのが分かりますね。そしてその時代を生きていた人々の苦しみや悲しみ、そういったものも感じられます。
三国志、とくに三国志演義では戦では華々しい戦果や知略の方にばかり目が行ってしまいますが、その一方でそこで失われてしまっている命もあるということを忘れずに、決して彼らがただ戦いを楽しんでいると誤解しないように。
それを曹操の詩からも読み取って欲しいと思います。
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