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[歴史の謎]漢王朝が2回滅亡した真相を探る

2023年11月2日


 

 

漢王朝は皆さんもご存知の通り前漢と後漢に分かれています。なぜ前漢・後漢に分かれているかというと、王莽によって一度滅ぼされているからです。それでも不死鳥のごとく蘇った漢王朝。

 

ところが、やっぱり衰退の一途をたどり再び滅亡してしまいました。前漢も後漢もそれぞれ200年という長い時代を築いたのに、なぜ滅んでしまったのでしょうか?

 

今回はその原因を探ってみましょう。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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正直、劉邦が嫁にした奴がマズかった…

呂后(りょこう)

 

実は漢王朝の破滅の足音は劉邦(りゅうほう)が漢王朝を立てる前から既にヒタヒタと聞こえ始めていたのかもしれません。

その足音の正体は劉邦の妻・呂雉(りょち)です。

 

呂雉は後に皇后となるので人々には呂后の呼び名で知られています。彼女は劉邦が布衣の身であるときから連れ添っている所謂(いわゆる)糟糠(そうこう)の妻」なのですが、正直彼女については、彼女だけはどこかでポイッと捨ててしまった方が良かったのかもしれません…。

 

劉邦が崩御し、劉盈(りゅうえい)が即位すると呂后は皇太后となったのですが、劉邦の後継者争いのときライバルとなった者たちを次々と暗殺・処刑。(ちょうおう)となった劉如意(りゅうにょい)の母・戚夫人(せきふじん)については両手両足を切り落として目玉をくり抜き、更に耳と声を毒薬で潰して厠に住まわせ

 

人彘(じんてい)(人豚)」と呼んで嘲笑(あざわら)ったのだそう。

 

この極悪非道な呂后の振る舞いに息子の劉盈は落胆して自暴自棄になり若くして亡くなってしまいます…。しかし、呂后は実の息子を失ってもあっけらかんとしており、次の皇帝を選び始める始末。呂后は自分の血を引く幼い皇帝を立て、更に身内を重役に付けることによって外戚政治を展開します。

 

呂后の横暴さには拍車がかかり、自分の敵になりそうな劉邦の子どもたちを暗殺したり気に入らない皇帝を廃位して新しい皇帝を立てたりするなどやりたい放題。彼女のこういった振る舞いが後の人々にも悪い意味で受け継がれることになってしまったのでした…。

 

 

 

儒教による統治が前漢滅亡を招いた!?

 

武帝(ぶてい)儒教(じゅきょう)を国教としてから、官僚たちの中に徐々に儒家が増えていったのですが、このことが前漢の滅亡の原因の一端になってしまったとも考えられます

 

儒教は徳による統治を推奨する学問です。そのため、皇帝も徳による政治を行おうと頑張るのですが何せ徳というものはつかみどころのないあやふやな存在。そのため、その定義付けから議論を始めなければならず政治の場は大混乱してしまうことに。

 

そんな場所で活躍できたのは儒教に明るい者たちと皇帝と深い関係にあった外戚や宦官だけでした。そうなると力を持てるのは外戚であり儒学に明るい者、もしくは宦官であり儒学に明るい者です。ただ、儒教では親を重んじる思想があるので宦官よりも外戚の方が優勢だったに違いありません。そのような状況の中で台頭してきたのがあの王莽(おうもう)でした

 

外戚であり儒学にも明るかった王莽はあえて幼い皇帝を擁立し、自ら仮皇帝や摂皇帝となって政治を専横。ついに帝位を簒奪(さんだつ)して前漢を滅ぼしてしまったのでした。

 

 

 

後漢王朝は即位する皇帝が皆若すぎたし早死にしすぎた

 

赤眉(せきび)の乱などの農民反乱が勃発し王莽(おうもう)による怪しい儒教国家・新は十数年で滅ぼされ、再び返り咲いた漢王朝光武帝(こうぶてい)の力によって不死鳥のごとく復活して見せたのですが、とにかく後漢王朝で皇帝となった人たちは若すぎました。

 

光武帝と明帝(めいてい)以外は全員20歳未満での即位。中には生後100日の赤ちゃん皇帝も!そんな幼い皇帝を操っていたのはやっぱり外戚や宦官でした。外戚が嫌になった若い皇帝が宦官に泣きついて外戚が駆逐され宦官が優勢になったり、宦官の悪政に困った皇帝が外戚に泣きついて

 

宦官が駆逐され外戚が優勢になったり…。外戚と宦官によるシーソーゲームが繰り広げられ、後漢王朝の政治は混迷を極め、民草の不満が募る大きな原因となってしまったのでした。

 

外戚と宦官がほしいままに政を行いたいがために幼い皇帝を立てまくったのは勿論大問題ですが実は後漢王朝の皇帝たちはとにかく皆早死にだったのである意味仕方の無いことだったのかもしれません。

 

40歳以上年を取ることができたのは初代光武帝を除くとまさかの最後の皇帝献帝(けんてい)だけだったそうな。まぁ、彼らが早死にしてしまったのは単に病弱だっただけではないような気もしますが…。とにかく後漢は闇が深すぎます。

 

 

三国志ライターchopsticksの独り言

三国志ライター chopsticks

 

前漢王朝も後漢王朝も主に外戚や宦官の専横による内政の混乱によって衰退していきましたが、その萌芽は劉邦が呂雉を(めと)ったときに既にあったのでしょう。そこに良くも悪くも儒教というエッセンスと皇帝が早逝するという呪いが加わり、更なるカオスが…。…本当に悪い意味で歴史が繰り返している王朝ですね。

 

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清朝考証学を勉強中。 銭大昕の史学考証が専門。 片田舎で隠者さながらの晴耕雨読の日々を満喫中。 好きな歴史人物: 諸葛亮、陶淵明、銭大昕 何か一言: 皆さんのお役に立てるような情報を発信できればと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。

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