李典と楽進は張遼との仲は最悪で全く協調しませんでした。しかし李典・楽進・張遼の三人が合肥城を守備している時、孫権軍が襲来。この時、李典と楽進は日ごろの張遼と仲が悪かった事を一時的に仲直りをし、協力して孫権軍に立ち向かっていきますが、李典と楽進の仲はどうだったのでしょう。今回はこの二人の仲について紹介したいと思います。
楽進と李典は仲悪い!?
楽進と李典の仲は悪いのでしょうか。正史三国志によれば、李典と楽進の二人は一緒にコンビを組んで戦に臨んでいる時が度々あります。一体どの戦で二人はコンビを組んで戦ったのでしょうか。
李典と楽進のコンビ結成
李典と楽進はコンビを組んで戦った時がありますが、いつ頃どの戦で一緒にコンビを組んで戦ったのでしょうか。二人がコンビを結成したのは官渡の戦いで袁紹軍の大軍に曹操軍の本隊が勝利した後でした。李典と楽進は官渡の戦いの後、袁紹軍の残りが統治している河北を曹操の勢力で統一するため、曹操から命令を受けてコンビを組んで戦うことになります。
高幹討伐戦で活躍する二人
李典と楽進は袁紹の甥・高幹が領有している并州を攻略するため出陣。李典と楽進はコンビを組んで出陣すると高幹が領有していた城や町を軽々と攻略し、二人の息はぴったりでした。そして李典と楽進のコンビは高幹が壺関に籠城していることを知ると壺関を包囲。
曹操はこの二人が戦で功績を残したことを喜び、李典と楽進を褒めたたえています。その後二人は壺関の包囲戦から海岸線を拠点としている海賊討伐の命令を受け出陣。李典と楽進の軍勢は海岸線を拠点としている海賊を各地で打ち破って海賊たちの討伐に成功します。李典はこの海賊討伐戦での功績が曹操に認められることになり、侯の位を授与されることになります。このように二人のコンビは息がぴったりで、ふたりの仲が悪そうには見えませんよね。
戦では息ピッタリだけど…
李典と楽進は戦では息がピッタリで名コンビと言える戦いぶりを見せます。しかし正史三国志の李典伝では李典と楽進、そして張遼それぞれ仲が悪いと書いておりますので、李典と楽進もそれなりに仲が悪かったのでしょう。どうして二人の仲は悪かったのでしょうか。
李典と楽進の出身の違いに秘密がある!?
正史三国志には李典と楽進の仲が悪かったとしか、記載がなく二人の仲が悪かったのか分かりません。そのためここからは推測になります。レンは李典と楽進の仲が悪かったのは、出身の違いが原因だと考えます。李典は大豪族出身の武将で一族郎党合わせて一万人以上もいる裕福な将で、曹操軍に加入した後もとんとん拍子で出世していきます。
対する楽進は曹操軍の一兵士から始まり、初めは記録係からスタート。その後楽進は記録係から軍人へ転向し、一番下っ端の校尉から始まり、各地の戦場でコツコツと戦功を重ねていった武将です。そのため楽進が李典の出世スピードや豪族出身の裕福な武将であったことに嫉妬していたと考えられると思われます。そして李典は楽進の悪意ある意思(嫉妬)に気づいて、楽進との仲が悪くなったのではないのでしょうか。あくまでレンの推論ですので断定はできませんが、皆さんはどのように思いますか。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は李典と楽進の仲について紹介しました。普通仲が悪かったら戦場もプライベートも嫌いあっているはずです。しかし李典と楽進は戦場という非日常ではしっかりと協力して、敵軍を蹴散らし息がぴったりな二人ですが、プライベートでは関わり合いが一切無く、とても仲の悪かった二人。李典と楽進のようにはっきりと戦場とプライベートを区別した極端な武将も三国志の世界では珍しいのではないのでしょうか。
■参考 正史三国志魏書等
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