漢王朝は前漢200年、後漢200年、あわせて400年という長い歴史を誇る王朝です。そんな漢王朝の御代はたくさんの中国文化が芽吹いた時代でもありました。今回は漢王朝が誇る数々の文化をご紹介していきたいと思います。
この記事の目次
人類史上初の「紙」が発明された!
漢の御代に発明されたものの中でも代表的なものといえば「紙」です。今ではその辺に溢れかえっている紙ですが、後漢王朝に仕えていた宦官・蔡倫がつくり上げるまでは世界中のどこにも存在しないものでした。『後漢書』には蔡倫が木の皮や麻を使って紙をつくり、和帝に献上したと記されています。しかし、最近では前漢代の遺跡から紙の原型ともいえるものが多数出土しているということで紙の原型は前漢代には既にできていたと考えられおり、蔡倫は製紙法を改良したのだと考えられています。
儒教が全盛期を迎える
漢王朝の時代には老荘思想や法家思想も流行りましたが、最も栄えた思想といえばやはり儒教です。武帝が董仲舒の助言を受けて儒教を官学に据え、五経博士を設置したり郷挙里選を導入して儒家を中央に呼び寄せるようになると人々はこぞって儒教の勉強に励むようになりました。ちなみに、五経博士の「五経」というのは『易経』『書経』『詩経』『春秋』『礼記』のことです。
前漢末期には怪しげな緯書がたくさん編まれ、ついには王莽の帝位簒奪を許すまでになってしまいましたが、後漢王朝が成立すると五経を中心とする儒家の経典の研究が積極的に行われるように。経典の文字を1つずつ追って丁寧に解釈していく訓詁学が花開きました。
『史記』や『漢書』などの史書が編まれる
漢王朝の御代には歴史研究も積極的に行われました。その代表として挙げられるのは司馬遷によって編まれた『史記』や班固によって編まれた『漢書』です。『史記』は神話時代から前漢・武帝の時代までの歴史を紀伝体、すなわち物語形式で描いた通史であり、『漢書』は同じく紀伝体によって前漢王朝の一時代の歴史を描いた断代史です。他にも陸賈による『楚漢春秋』や劉向による『戦国策』『説苑』、政府の修史事業の一環として『東観漢記』などが編まれています。
漢詩も2つの流派に分かれる
漢詩が全盛期を迎えるのは六朝時代や唐代ですが、漢王朝の時代にはその萌芽ともいえるものが見られるようになっていました。その代表的なものが「楽府」と呼ばれる民謡と「賦」と呼ばれる長うたです。「楽府」は五経の1つに数えられる『詩経』において「風」に分類されている詩を源流とするもので、五言のものが多く、音楽にのせて歌われることが前提の詩となっています。「楽府」には韻を踏むということ以外に技巧と呼べる表現は少なく、民草の素朴な感情が詠われているのが特徴。他方、「賦」は南方で生み出されたシャーマニズム的要素が強い『楚辞』を源流とするもので、七言のものが多いです。「賦」は純朴な印象の「楽府」とは異なり、比喩表現や対句表現などの技巧に富んだものばかり。中でも前漢代では司馬相如の「子虚賦」や「上林賦」が、後漢代では班固の「両都賦」が有名です。
お墓に埋められた芸術品の数々
漢代には多くの芸術品も作られていたようで、墳墓の中からたくさんの美術品が出土しています。明器と呼ばれる食器や家具、動物や奴隷をかたどった土器や青銅器、陶磁器、漆器をはじめ、遺体を覆う金縷玉衣、神話や戦争を描いた壁画等、実に様々。どれもこれも漢代の人々の技術力の高さが窺い知れる代物ばかりです。
天文学や医学、数学も発展
後漢代には様々な科学技術も一気に発展していきました。張衡という人物は天文学に励み星座の位置を正確に示す渾天儀やどの方角で地震が起きたかを知ることができる地動儀を発明したり、月食のメカニズムを解き明かしたりと大活躍。張仲景という医者は傷寒という伝染病を研究して『傷寒論』という医学書を著しました。
また、華佗という医者に至っては麻沸散を使って世界初の全身麻酔を行ったと言います。
数学についても『九章算術』という数学の問題集が編まれており、その当時の人々も数学に励んでいたことが窺えます。
三国志ライターchopsticksの独り言
こうして漢代の文化を列挙してみるとどれもこれも後世に大きな影響を与えたものばかりですね。漢王朝がいつまでも漢民族が誇る王朝として語られ続ける所以が垣間見えます。
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