[漢王朝の始祖]劉邦の建国物語!400年続いた理由とは?

2024年1月10日


劉邦はヤンキー

 

中国の歴史の中でも一際異彩を放つ王朝である(かん)。その礎を築いたのは、劉邦(りゅうほう)という人物でした。彼は一体どのようにして400年もの長い歴史を誇る漢王朝(かんおうちょう)の礎を築き上げたのでしょうか?今回はその建国までの道のりを辿ってみたいと思います。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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なぜか周りに人が集まるヤクザ者・劉邦

酒を飲み民を逃す劉邦

 

劉邦は現在の江蘇省徐州市あたりにあった沛県で生まれ育ちました。劉邦は酒浸り女浸りのどうしようもないヤクザ者で、せっかくコネで官職についても真面目に働かないという残念な人でした。ところが、劉邦には不思議な魅力があったようで、彼が飲み屋にいるとたくさんの人が自然と集まり店はあっという間に満席になったそうです。

 

 

 

沛公となった劉邦

担がれる劉邦

 

ある日、劉邦は亭長として人夫を連れて咸陽に向かいました。しかし、秦では過酷な労働と厳しい刑罰が待っているということを知っていた人夫たちは途中で続々と逃亡。この状況を見てやけくそになった劉邦も酒を飲んで人夫たちを逃がし、自らも逃亡して沼沢に隠れるという暴挙に出てしまったのでした。

 

そんな折、陳勝(ちんしょう)呉広(ごこう)の乱が勃発。劉邦の故郷・沛県では反乱軍に与するべきか、あくまで朝廷側に立つか、人々の間で動揺が走りました。その際、蕭何(しょうか)曹参(そうしん)を中心に「今の県令じゃあ話にならないし、とりあえず人望がある劉邦を頭にして反乱に参加しようぜ」という声が上がり、隠れていた劉邦の元に使者が送られます。

 

県令が劉邦を締め出すというトラブルがあったものの、人々の歓迎を受けて劉邦は沛県の県令となり、以後劉邦は沛公と呼ばれるようになったのでした。

 

 

項梁・項羽の勢力下に

 

沛公となった劉邦は2、3千人の配下を引き連れて周辺の県の平定に出かけることにします。序盤の劉邦の戦いはいずれも思わしくなかったものの、少しずつ兵を集めて勢力を拡大していきました。

 

 

張良

 

 

そんな中で劉邦は運命の軍師・張良(ちょうりょう)をゲットします

 

時を同じくして南の方でも勢力を拡大していた者たちがありました。それは、項梁(こうりょう)とその甥の項羽(こうう)です。劉邦とは比べ物にならない強さを誇る彼らは秦郡を破竹の勢いで蹴散らし、順調にその勢力を伸ばしていました。項梁・項羽と出会った劉邦も打倒・秦という志を同じくするということで彼らの勢力下に入って共に戦うことになりました。

 

 

先に関中に入っちゃった劉邦

劉邦

 

途中でリーダーである項梁が戦死してしまうものの、項羽と劉邦は力を合わせて秦軍を追い詰めていきました。これからいよいよ(しん)の都・咸陽(かんよう)に突撃というときに、なんと趙から救援要請が。そこで項羽一行はひとまず趙に向かい、劉邦一行は別動隊として西回りに咸陽へ向かうことになりました。

 

そのときは誰もが項羽が1番最初に咸陽に入ると思っており、項梁や項羽に担ぎ上げられていた(かいおう)も「1番先に関中に入った者を王とする」とお約束。ところが、力業で敵をなぎ倒す項羽に対し、無血開城でひょいひょいと進んだ劉邦はあっという間に咸陽に到着。そして、項羽にその功を横取りされまいと劉邦は函谷関を固く閉ざしてしまったのでした

 

 

絶体絶命!鴻門の会

ブチギレる項羽

 

劉邦に締め出されて黙っている項羽ではありません。「俺が秦の主力軍と戦っていたから早く関中に入れただけのオッサンが関中王を気取りやがって!」と大激怒。項羽軍は怒涛の勢いで函谷関に迫りました。圧倒的な力を誇る項羽軍に攻められては劉邦軍はひとたまりもありません。

 

劉邦陣営がかなり焦っていたところ、なんと項羽の叔父・項伯(こうはく)が救いの手を差し伸べに来てくれました。項伯は張良に恩返しをすべく、わざわざ劉邦のもとを訪ねてきてくれたのです。項伯がなんとかとりなしてくれたおかげで、鴻門で劉邦の弁解の場が設けられることに。これが世にも有名な鴻門の会です。この会のおかげで項羽の怒りは鎮まり、劉邦は何とかその命を落とさずに済んだのでした。

 

 

漢中王となった劉邦に新たな戦力

左遷される劉邦

 

命は助かったものの、劉邦は辺境の地である漢中に飛ばされます。もはや流刑です。しかし、ここで劉邦は再び素晴らしい人材をゲットします。

 

韓信将軍

 

その人こそが韓信(かんしん)です。蕭何は韓信の才能を見抜き、韓信を大将軍に抜擢。劉邦軍に希望が灯った瞬間でした。

 

 

楚漢戦争で辛くも勝利

劉邦と樊カイ

 

しばらくは項羽による統治が行われていたのですが、項羽はわがままで乱暴な性格だったので、ついに各地で反乱が起こります。もちろん劉邦もこの反乱に乗じて挙兵。楚漢戦争に突入します。しかし、やはり項羽軍は強く劉邦軍は何度も大敗を喫します。それでも劉邦軍は様々な計略を用いて少しずつ項羽軍の力をそぎ落とし、ついに垓下で項羽を自刃させて勝利を手にしたのでした。

 

 

三国志ライターchopsticksの独り言

三国志ライター chopsticks

 

項羽(こうう)という強敵を下した劉邦は、正直そこまで魅力的な人物に映りません。しかし、彼は素晴らしい人物を引き寄せる力を人一倍持っていました。彼のそのような力が彼に天下をもたらしたのでしょう。

 

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清朝考証学を勉強中。 銭大昕の史学考証が専門。 片田舎で隠者さながらの晴耕雨読の日々を満喫中。 好きな歴史人物: 諸葛亮、陶淵明、銭大昕 何か一言: 皆さんのお役に立てるような情報を発信できればと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。

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