『水滸伝』は明(1368年~1644年)の時代に作られた小説です。中国では『三国志演義』に匹敵する人気を誇っております。
モチーフは北宋(960年~1127年)末期の小規模な反乱です。
リーダーの宋江も実在しています。この『水滸伝』は名前は知っているが、どんな話か知らないという人が多いです。そこで今回は『水滸伝』のあらすじをざっくりと解説します。
この記事の目次
魔物の封印を解く
時は北宋第4代皇帝仁宗の時代です。各地で疫病が流行りました。
当時の医療技術では対処出来ないことばかりだったので、仁宗は竜虎山に住んでいる張天師に頼むことにしました。そこで使者として太尉の洪信を派遣しました。竜虎山で仕事を終えた洪信は翌日、近くの道教の寺院を見物していました。
すると、「伏魔殿」という建物が目に付きました。伏魔殿には、たくさんのお札が貼ってあります。
寺院の人によると中に魔物が封じ込められているとのこと。面白半分で洪信は伏魔殿を開きました。すると急に明るくなり、一斉に光が飛び出しました。寺院の人の話によると、中には108の魔物が封じられていたのでそれが世に放たれたとのこと。恐ろしくなった洪信は都に帰りました。
王進逃亡
さて、時は流れて北宋第8代皇帝徽宗の時代になります。この時代に政治が大いに乱れました。そんな中で、遊び上手なことで出世した男がいました。男は高俅と言います。高俅は遊び上手であったことから、徽宗に気に入られて半年で太尉になったのです。高俅は自分が太尉に就任したので部下を全員集めましたが、1人だけ来ていない人がいました。その人物は棒術師範の王進です。王進は病気で寝込んでいる最中でしたが、怒った高俅は無理してでも出るように伝えました。
パワハラですね・・・・・・話を聞いた王進は嫌々ながらも出ました。しかし、高俅の顔を見た王進はびっくりしました。なんと高俅はかつて、王進の父にボコボコにされたヤ〇ザだったのです。
復讐をおそれた王進は、母と一緒に都から逃げ出しました。
史進との出会い
逃げた王進でしたが、途中で母の具合が悪くなりました。華州華陰県(現在の陝西省華陰市)史家村に到着した王進は、そこの村長にお願いして、母が回復するまで宿をお願いしました。幸いにも村長が善人だったので、王進は助かりました。そこで王進は1人の若者に出会いました。
若者の名は史進と言い、村長の息子です。背中に9匹の竜の刺青をしていることから、九紋竜というあだ名が付いていました。
史進の武術の腕は良いのですが、どこか隙がありました。素晴らしい腕をしているのにもったいないと感じた王進は、宿のお礼として史進の師匠となり半年間、スパルタ訓練をしました。
半年間の特訓の末に史進は免許皆伝の腕に到達しました。全てを教えた王進は、また旅に出ました。
晁蓋の賄賂強奪
その後、史進・魯智深・林冲等の豪傑の単独のストーリーが続きます。
しかし、これらは飛ばし読みしても問題ありません。話は晁蓋という人物に行きます。晁蓋は鄆城県(現在の山東省菏沢市鄆城県)の村長です。武芸に長けた人物であり、托塔天王と呼ばれています。托塔天王は毘沙門天という意味です。晁蓋はある日、劉唐という男から密告が入りました。劉唐はこめかみに赤い痣があり、そこから赤毛があることから、赤髪鬼と呼ばれています。おそらく、異民族とのハーフでしょう。
劉唐の情報によると北京大名府(現在の河北省邯鄲市大名県)から宰相の蔡京に賄賂が贈られることでした。正義感にあふれる晁蓋はその賄賂を許せずに、劉唐・呉用・阮小二・阮小五・阮小七・公孫勝・白勝と一緒に強奪しました。
梁山泊2代目首領晁蓋
だが、晁蓋はすぐに追われる身となります。この時に、晁蓋を逃がしたのが宋江です。ここでようやく主人公が登場します。
宋江は呼保義と呼ばれています。このあだ名は、専門家でも意味が分からないようです。宋江のおかげで、晁蓋たちは梁山泊まで逃げることに成功します。
ところが、首領の王倫は度量の小さい男であり、晁蓋のように才能がある男が仲間になることを良く思いません。金だけ渡して、さっさと追い出そうとしました。
この時、以前から王倫に対して好感を持っていなかった林冲が王倫を殺害しました。その後、林冲の推薦により晁蓋が2代目梁山泊首領に就任します。
罪人宋江
今度は宋江が追われる身となります。宋江には閻馬借という妾がいました。好きで囲っていた妾ではなく、頼まれたから囲っただけです。閻馬借は宋江が梁山泊と繋がりがあることを知ると、宋江を脅しました。怒った宋江は口論となり、とうとう閻馬借を殺しました。やむを得ず、宋江は逃亡しました。しかし、父から自首を勧められたので最終的には自首しました。宋江は江州(現在の湖北省宜都市)に流刑にされました。護送の途中で様々な豪傑と交流をします。
江州での戦い
江州に到着した宋江は牢役人の戴宗と李逵に出会います。戴宗は1日800里を走る神行法という技を持っていることから、神行太保と呼ばれています。李逵は自黒であることから、黒旋風と呼ばれています。
宋江はこの2人と仲良くなりました。また、戴宗のおかげで宋江は出入り自由の囚人にしてもらいました。さて宋江はある日、外で飲んだ時に酔っぱらった勢いで居酒屋の壁に詩を書きました。
要するに落書きです。今だったら、絶対にネットでバッシング受けますよ。これを通判の黄文炳という男が読みました。余談ですが通判とは知事の監察を行う役職です。マンガでは副知事と注釈で書くことが多いですが、全く違います。話を戻します。
宋江の詩を読んだ黄文炳は、内容が反逆に関することだったので、すぐに密告に行きました。結果、宋江は反逆者として捕縛されます。助けようとした戴宗も失敗して捕縛されました。宋江と戴宗に下された判決は死刑でした。宋江と戴宗の危機に梁山泊が助けに入り、どうにか2人を救出しました。この時の戦いで多くの人が梁山泊に加入しました。
多くの敵を破り仲間を増やす
梁山泊に加入した宋江は、その後多くの敵を破りました。祝家荘の村長の祝朝奉とその一族、高俅の従弟の高廉、呼延灼率いる連環馬・・・・・・戦っていくうちに仲間も増えていきます。自然に加入する者、説得されて降伏する者もいました。梁山泊は北宋において、一大勢力となったのです。
晁蓋の死
ある日、梁山泊を倒して名を挙げようとする曾頭市の曾一族と武術師範の史文恭がやって来ました。宋江が出ようとしますが、ここで晁蓋が待ったをかけます。
「いつも宋江殿には戦に出てもらっているので、今回は私が出ます」これが良くない判断でした。
晁蓋は曾頭市まで出陣して戦いますが、なかなか決着がつきません。そんな時に僧侶が来て、奇襲をかけるための裏道を教えてくれました。他の者は僧侶の言葉を信じなかったのですが、晁蓋は早く決着をつけたかったので、裏道を通りました。ところが、これは罠でした。晁蓋は史文恭が放った毒矢に当たります。結局、梁山泊は撤退となりました。臨終の間際に、晁蓋は宋江に「史文恭を討った人物を新しい首領にしてほしい」と言い残してこの世を去りました。
梁山泊3代目首領宋江 そして108人へ
その後、宋江は北京大名府の富豪の盧俊義を新しい首領に推薦します。盧俊義は玉麒麟と呼ばれている豪傑です。盧俊義は梁山泊に加入して、また宋江たちの敵である史文恭も討ちますが首領は辞退します。
やはり、みんなは宋江に首領になって欲しかったのです。みんなの推薦により宋江は首領になりました。この時に幹部の数は108人になっていたのです。かつて、洪信が伏魔殿から逃がした妖怪の数と一緒だったのです。
梁山泊官軍に編入される
梁山泊はその後も、官軍を打ち破りました。ところが、宋江はいつまでも賊ではいたくなかったのです。いつか、朝廷に許されて仕える気持ちがありました。
そこで燕青の力を借りることにしました。燕青は背中に立派な刺青をしており、音楽・武術・方言・歌舞に通じていることから浪子と呼ばれていました。燕青は徽宗の愛人の李師師に接触して、梁山泊はただの賊ではないことを伝えました。また徽宗とも面会しました。この密会の結果、梁山泊は許されて官軍に編入されることになります。
無敵の梁山泊
しかし、これを快く思わなかったのが高俅や蔡京です。彼らは各地で反乱が起きているのを良い機会に、梁山泊を討伐軍に出して弱らせようと考えたのです。
まず最初に戦ったのは北方の遼(916年~1125年)です。これには、あっさりと勝ちました。
仕方ないので高俅たちは河北で暴れている田虎が率いる反乱軍の討伐に行かせました。ところが高俅たちの予想を裏切って、梁山泊はあっさりと勝利します。梁山泊が次に挑んだのは、淮西の王慶です。
読者の皆様は予想がつくと思いますが勝ちました。
「もうチートや、チーターやろそんなん!」
『ソー〇アートオンライン』のキ〇オウのセリフと一緒です。
高俅もきっと同じことを思ったでしょう。最終手段として高俅は江南の方臘の乱の鎮圧を宋江に命じました。方臘の乱は史実にある反乱であり、北宋史上最大の反乱と言われています。ちなみに、宋江たちはこの時点まで恩賞が全くありません。
無論、高俅たちは最初から恩賞なんてあげるつもりはありません。
李逵は「アホ臭いから梁山泊に帰ろう!」と言っていました。
しかし、宋江は「まあまあ」と言っています。
限度がありますね・・・・・・
梁山泊の最後
こうして方臘討伐に向かった梁山泊ですが、さすがに方臘は手強い相手です。あれだけ強かった108人の幹部も戦死していきます。史進・阮小二・阮小五・劉唐・・・・・・数えたらきりがありません。最終的に戦には勝利しますが、108人もいた幹部は36人しか生き残っていませんでした。また、都に帰る途中も脱退や病死が続出して、都に着いた時には27人になっていました。
宋江の死
こうして、北宋を悩ませていた反乱軍は全て壊滅しました。宋江たちは功績により恩賞をもらいますが、ほとんどが辞退します。またもや脱退者が続出します。結局、北宋に仕える者はほとんどいませんでした。こうして梁山泊は解散となります。宋江は北宋に仕えることになります。
だが、高俅たちは許しません。いずれ、また反乱を起こされたら困るので殺すことにしました。
ある日、宋江に酒を送りました。中には水銀が入っていたのです。名目は皇帝からの祝いの酒となっています。宋江は迷うことなく、その場で飲みました。ところがしばらくすると、体調が悪くなりました。宋江はそこで、毒を飲まされたと悟ります。
宋江にとって気がかりなのは、義弟の李逵です。自分が殺されたと知ったら、きっと反乱を起こすに違いありません。そこで李逵を呼んで同じ毒を飲ませました。要するに道連れにするのです。
李逵は何も怒りません。宋江と一緒に死んであげることにしました。それからしばらくして、2人は息を引き取ります。
一方、徽宗は夢枕に李逵が立って怒っていたので不審に思って宋江の死を調べました。果たして、高俅たちの仕業であることが分かりました。しかし、今までの功績から処罰は何も出来ませんでした。
こうして『水滸伝』は幕を閉じます。
(完)
宋代史ライター 晃の独り言
以上で『水滸伝』のあらすじは終了です。色々省いた点はありますが、詳細な点は細かい記事で執筆します。
※参考文献
・宋代官僚制度研究 (東洋史研究叢刊 (37))
・宮崎市定「宋代官制序説―宋史職官志を如何に読むべきかー」(初出1963年 後に『宮崎市定全集〈10〉宋』 1992年所収)
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