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[短時間解説]水滸伝の全てを3分で理解しよう!

2024年1月14日


水滸伝って何? 書類や本

 

 

水滸伝(すいこでん)』は(みん)(1368年~1644年)の時代に作られた小説です。中国では『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に匹敵する人気を誇っております。

 

「宋」の国旗をバックとした兵士

 

 

モチーフは北宋(ほくそう)(960年~1127年)末期の小規模な反乱です。

 

宋江 水滸伝

 

 

リーダーの宋江(そうこう)も実在しています。この『水滸伝(すいこでん)』は名前は知っているが、どんな話か知らないという人が多いです。そこで今回は『水滸伝』のあらすじをざっくりと解説します。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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魔物の封印を解く

疫病が流行った村

 

時は北宋第4代皇帝仁宗(じんそう)の時代です。各地で疫病(えきびょう)が流行りました。

 

疫病が蔓延している村と民人

 

 

当時の医療技術では対処出来ないことばかりだったので、仁宗(じんそう)竜虎山(りゅうこざん)に住んでいる張天師(ちょうてんし)に頼むことにしました。そこで使者として太尉(たいい)洪信(こうしん)を派遣しました。竜虎山(りゅうこざん)で仕事を終えた洪信(こうしん)は翌日、近くの道教(どうきょう)の寺院を見物していました。

 

 

水滸伝って何?

 

 

すると、「伏魔殿(ふくまでん
)
」という建物が目に付きました。伏魔殿(ふくまでん
)
には、たくさんのお札が貼ってあります。

 

寺院の人によると中に魔物が封じ込められているとのこと。面白半分で洪信(こうしん)伏魔殿(ふくまでん
)
を開きました。すると急に明るくなり、一斉に光が飛び出しました。寺院(じいん)の人の話によると、中には108の魔物が封じられていたのでそれが世に放たれたとのこと。恐ろしくなった洪信は都に帰りました。

 

 

 

王進逃亡

徽宗は北宋の第8代皇帝

 

さて、時は流れて北宋第8代皇帝徽宗(きそう)の時代になります。この時代に政治が大いに乱れました。そんな中で、遊び上手なことで出世した男がいました。男は高俅(こうきゅう)と言います。高俅(こうきゅう)は遊び上手であったことから、徽宗(きそう)に気に入られて半年で太尉(たいい)になったのです。高俅は自分が太尉に就任したので部下を全員集めましたが、1人だけ来ていない人がいました。その人物は棒術師範(ぼうじゅつしはん)王進(おうしん)です。王進(おうしん)は病気で寝込んでいる最中でしたが、怒った高俅(こうきゅう)は無理してでも出るように伝えました。

 

パワハラですね・・・・・・話を聞いた王進は嫌々ながらも出ました。しかし、高俅の顔を見た王進はびっくりしました。なんと高俅はかつて、王進の父にボコボコにされたヤ〇ザだったのです。

 

復讐をおそれた王進(おうしん)は、母と一緒に都から逃げ出しました。

 

 

史進との出会い

 

逃げた王進でしたが、途中で母の具合が悪くなりました。華州(かしゅう)華陰県(かいんけん)(現在の陝西省(ふせんせいしょう
)
華陰市(かいんし))史家村に到着した王進は、そこの村長にお願いして、母が回復するまで宿をお願いしました。幸いにも村長が善人だったので、王進(おうしん)は助かりました。そこで王進は1人の若者に出会いました。

 

 

史進(水滸伝)

 

 

若者の名は史進(ししん)と言い、村長の息子です。背中に9匹の竜の刺青をしていることから、九紋竜(くもんりゅう)というあだ名が付いていました。

 

 

史進(水滸伝)

 

 

史進の武術の腕は良いのですが、どこか隙がありました。素晴らしい腕をしているのにもったいないと感じた王進は、宿のお礼として史進の師匠となり半年間、スパルタ訓練をしました。

 

 

史進(水滸伝)

 

 

半年間の特訓の末に史進は免許皆伝の腕に到達しました。全てを教えた王進は、また旅に出ました。

 

 

 

晁蓋の賄賂強奪

魯智深(水滸伝)

 

その後、史進・魯智深(ろちしん)林冲(りんちゅう)等の豪傑(ごうけつ)の単独のストーリーが続きます。

 

 

魯智深、林冲(水滸伝)

 

 

 

しかし、これらは飛ばし読みしても問題ありません。話は晁蓋(ちょうがい)という人物に行きます。晁蓋(ちょうがい)鄆城(うんじょう)県(現在の山東省(さんとうしょう)菏沢市(かたくし)鄆城県(うんじょうけん))の村長です。武芸に長けた人物であり、托塔天(たくとうてんおう)と呼ばれています。托塔天王(たくとうてんおう)毘沙門天(びしゃもんてん)という意味です。晁蓋(ちょうがい)はある日、劉唐(りゅうとう)という男から密告が入りました。劉唐(りゅうとう)はこめかみに赤い痣があり、そこから赤毛があることから、赤髪鬼(せきはつき)と呼ばれています。おそらく、異民族とのハーフでしょう。

 

 

蔡京(水滸伝)

 

 

劉唐の情報によると北京大名府(ほっけいたいめいふ)(現在の河北省邯鄲市大名県)から宰相(さいしょう
)
蔡京(さいけい)に賄賂が贈られることでした。正義感にあふれる晁蓋はその賄賂を許せずに、劉唐・呉用(ごよう)阮小二(げんしょうじ)阮小五(げんしょうご)阮小七(げんしょうしち)公孫勝(こうそんしょう)白勝(はくしょう)と一緒に強奪しました。

 

 

 

梁山泊2代目首領晁蓋

宋江(水滸伝)

 

 

だが、晁蓋はすぐに追われる身となります。この時に、晁蓋を逃がしたのが宋江(そうこう)です。ここでようやく主人公が登場します。

 

 

リーダーになった宋江は水滸伝の主人公

 

 

 

宋江は呼保義(こほぎ)と呼ばれています。このあだ名は、専門家でも意味が分からないようです。宋江(そうこう)のおかげで、晁蓋たちは梁山泊(りょうざんぱく)まで逃げることに成功します。

 

 

水滸伝の主人公・ 宋江

 

 

ところが、首領の王倫(おうりん)は度量の小さい男であり、晁蓋のように才能がある男が仲間になることを良く思いません。金だけ渡して、さっさと追い出そうとしました。

 

 

林冲(水滸伝)

 

 

この時、以前から王倫に対して好感を持っていなかった林冲(りんちゅう)が王倫を殺害しました。その後、林冲(りんちゅう)の推薦により晁蓋(ちょうがい
)
が2代目梁山泊(りょうざんぱく)首領に就任します。

 

 

 

罪人宋江

宋江(水滸伝)

 

 

今度は宋江が追われる身となります。宋江には閻馬借(えんばしゃく)という(めかけ)がいました。好きで囲っていた妾ではなく、頼まれたから囲っただけです。閻馬借(えんばしゃく)は宋江が梁山泊と繋がりがあることを知ると、宋江を脅しました。怒った宋江は口論となり、とうとう閻馬借を殺しました。やむを得ず、宋江は逃亡しました。しかし、父から自首を勧められたので最終的には自首しました。宋江は江州(こうしゅう)(現在の湖北省(こほくしょう
)
宜都市(ぎとし))に流刑にされました。護送の途中で様々な豪傑と交流をします。

 

 

江州での戦い

李逵(水滸伝)

 

 

江州に到着した宋江は牢役人の戴宗(たいそう)李逵(りき)に出会います。戴宗(たいそう)は1日800里を走る神行法という技を持っていることから、神行太保(しんこうたいほう)と呼ばれています。李逵は自黒であることから、黒旋風(こくせんぷう)と呼ばれています。

 

 

李逵と宋江(水滸伝)

 

 

宋江はこの2人と仲良くなりました。また、戴宗のおかげで宋江は出入り自由の囚人にしてもらいました。さて宋江はある日、外で飲んだ時に酔っぱらった勢いで居酒屋の壁に詩を書きました。

 

 

落書きをする宋江(水滸伝の主人公)

 

 

要するに落書きです。今だったら、絶対にネットでバッシング受けますよ。これを通判の黄文炳(こうぶんへい)という男が読みました。余談ですが通判とは知事の監察を行う役職です。マンガでは副知事と注釈で書くことが多いですが、全く違います。話を戻します。

 

宋江、花栄(水滸伝)

 

 

宋江の詩を読んだ黄文炳は、内容が反逆に関することだったので、すぐに密告に行きました。結果、宋江は反逆者として捕縛されます。助けようとした戴宗も失敗して捕縛されました。宋江と戴宗に下された判決は死刑でした。宋江と戴宗の危機に梁山泊が助けに入り、どうにか2人を救出しました。この時の戦いで多くの人が梁山泊(りょうざんぱく)に加入しました。

 

 

多くの敵を破り仲間を増やす

 

梁山泊に加入した宋江は、その後多くの敵を破りました。祝家荘(しゅくかそう)の村長の祝朝奉(しゅくちょうほう)とその一族、高俅の従弟の高廉(こうれん)呼延灼(こえんしゃく)率いる連環馬・・・・・・戦っていくうちに仲間も増えていきます。自然に加入する者、説得されて降伏する者もいました。梁山泊は北宋において、一大勢力となったのです。

 

 

晁蓋の死

 

ある日、梁山泊を倒して名を挙げようとする曾頭市(そうとうし)の曾一族と武術師範の史文恭(しぶんきょう)がやって来ました。宋江が出ようとしますが、ここで晁蓋が待ったをかけます。

 

「いつも宋江殿には戦に出てもらっているので、今回は私が出ます」これが良くない判断でした。

 

晁蓋は曾頭市まで出陣して戦いますが、なかなか決着がつきません。そんな時に僧侶が来て、奇襲をかけるための裏道を教えてくれました。他の者は僧侶の言葉を信じなかったのですが、晁蓋は早く決着をつけたかったので、裏道を通りました。ところが、これは罠でした。晁蓋は史文恭が放った毒矢に当たります。結局、梁山泊は撤退となりました。臨終の間際に、晁蓋は宋江に「史文恭を討った人物を新しい首領にしてほしい」と言い残してこの世を去りました。

 

 

梁山泊3代目首領宋江 そして108人へ

 

その後、宋江は北京大名府の富豪の盧俊義(ろしゅんぎ)を新しい首領に推薦します。盧俊義(ろしゅんぎ)玉麒麟(ぎょくきりん)と呼ばれている豪傑です。盧俊義は梁山泊に加入して、また宋江たちの敵である史文恭(しぶんきょう
)
も討ちますが首領は辞退します。

 

宋江(水滸伝)

 

 

やはり、みんなは宋江に首領になって欲しかったのです。みんなの推薦により宋江は首領になりました。この時に幹部の数は108人になっていたのです。かつて、洪信が伏魔殿から逃がした妖怪の数と一緒だったのです。

 

 

梁山泊官軍に編入される

宋江(水滸伝)

 

 

梁山泊はその後も、官軍を打ち破りました。ところが、宋江はいつまでも賊ではいたくなかったのです。いつか、朝廷に許されて仕える気持ちがありました。

 

そこで燕青(えんせい)の力を借りることにしました。燕青は背中に立派な刺青をしており、音楽・武術・方言・歌舞に通じていることから浪子(ろうし)と呼ばれていました。燕青は徽宗の愛人の李師師(りしし)に接触して、梁山泊はただの賊ではないことを伝えました。また徽宗とも面会しました。この密会の結果、梁山泊は許されて官軍(かんぐん
)
に編入されることになります。

 

 

無敵の梁山泊

蔡京(水滸伝)

 

しかし、これを快く思わなかったのが高俅や蔡京です。彼らは各地で反乱が起きているのを良い機会に、梁山泊を討伐軍に出して弱らせようと考えたのです。

 

 

「遼」の国旗をバックとした兵士

 

まず最初に戦ったのは北方の(りょう)(916年~1125年)です。これには、あっさりと勝ちました。

仕方ないので高俅たちは河北(かほく)で暴れている田虎(でんこ)が率いる反乱軍の討伐に行かせました。ところが高俅たちの予想を裏切って、梁山泊はあっさりと勝利します。梁山泊が次に挑んだのは、淮西(わいせい)王慶(おうけい)です。

 

読者の皆様は予想がつくと思いますが勝ちました。

 

「もうチートや、チーターやろそんなん!」

『ソー〇アートオンライン』のキ〇オウのセリフと一緒です。

 

高俅もきっと同じことを思ったでしょう。最終手段として高俅は江南の方臘(ほうろう)の乱の鎮圧を宋江に命じました。方臘の乱は史実にある反乱であり、北宋史上最大の反乱と言われています。ちなみに、宋江たちはこの時点まで恩賞が全くありません。

 

無論、高俅たちは最初から恩賞なんてあげるつもりはありません。

李逵は「アホ臭いから梁山泊に帰ろう!」と言っていました。

 

しかし、宋江は「まあまあ」と言っています。

限度がありますね・・・・・・

 

梁山泊の最後

方臘(水滸伝)

 

こうして方臘討伐に向かった梁山泊ですが、さすがに方臘は手強い相手です。あれだけ強かった108人の幹部も戦死していきます。史進・阮小二・阮小五・劉唐・・・・・・数えたらきりがありません。最終的に戦には勝利しますが、108人もいた幹部は36人しか生き残っていませんでした。また、都に帰る途中も脱退や病死が続出して、都に着いた時には27人になっていました。

 

 

宋江の死

 

こうして、北宋を悩ませていた反乱軍は全て壊滅しました。宋江たちは功績により恩賞をもらいますが、ほとんどが辞退します。またもや脱退者が続出します。結局、北宋に仕える者はほとんどいませんでした。こうして梁山泊は解散となります。宋江は北宋に仕えることになります。

 

だが、高俅たちは許しません。いずれ、また反乱を起こされたら困るので殺すことにしました。

 

 

宋江(水滸伝)

 

 

ある日、宋江に酒を送りました。中には水銀が入っていたのです。名目は皇帝からの祝いの酒となっています。宋江(そうこう)は迷うことなく、その場で飲みました。ところがしばらくすると、体調が悪くなりました。宋江はそこで、毒を飲まされたと悟ります。

 

李逵(水滸伝)

 

 

宋江にとって気がかりなのは、義弟の李逵(りき)です。自分が殺されたと知ったら、きっと反乱を起こすに違いありません。そこで李逵を呼んで同じ毒を飲ませました。要するに道連れにするのです。

 

 

李逵(水滸伝)

 

 

李逵(りき)は何も怒りません。宋江と一緒に死んであげることにしました。それからしばらくして、2人は息を引き取ります。

 

宋江の夢(水滸伝の主人公)

 

一方、徽宗(きそう
)
は夢枕に李逵が立って怒っていたので不審に思って宋江の死を調べました。果たして、高俅(こうきゅう)たちの仕業であることが分かりました。しかし、今までの功績から処罰は何も出来ませんでした。

 

 

宋江、史進、李逵、魯智深、林冲、武松、楊志(水滸伝)

 

こうして『水滸伝(すいこでん)』は幕を閉じます。

 

(完)

 

 

宋代史ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上で『水滸伝』のあらすじは終了です。色々省いた点はありますが、詳細な点は細かい記事で執筆します。

 

※参考文献

・宋代官僚制度研究 (東洋史研究叢刊 (37))

・宮崎市定「宋代官制序説―宋史職官志を如何に読むべきかー」(初出1963年 後に『宮崎市定全集〈10〉宋』 1992年所収)

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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