「うちは二代目社長だから…」なんて愚痴る社会人を見たことはありませんか?
二代目社長は会社を潰すなんて話はまことしやかに囁かれ続けていますが、やはりハングリー精神で一から積み上げてきた一代目より全て出来上がった後に何の苦労もせず君臨できてしまう二代目は何かと弱いのかもしれません。そんな例は歴史を紐解けばごまんとありますよね。
たとえば、我らが愛する『三国志』に出てくる劉備の息子である蜀の二代目皇帝・劉禅だったり源頼朝の息子である鎌倉幕府の二代目将軍・源頼家だったり…。まぁただただ「時の人」によって悪く描かれただけの人もたくさんいると思いますが。
そんな風に後世に至るまで暗君扱いされた人の中にはあの始皇帝の息子である秦の二代目皇帝・胡亥の姿もあります。果たして胡亥はどのような人物だったのでしょうか?その実像に迫ってみましょう。
末っ子でありながら皇帝になった胡亥
多くの人は「跡継ぎ」といえば長男を思い浮かべると思います。しかし、秦の二代目皇帝である胡亥はなんと始皇帝の末っ子でした。このパターンは殷の紂王と同じですね。しかし、殷の紂王は末っ子でありながら兄を凌ぐ文武の才を持っていたということで跡継ぎに選ばれたのですが、胡亥については特別優れたところがあったわけではないようです。
ただ、父である始皇帝が崩御した際に父の重臣であった李斯と趙高の2人にプッシュされたことで二代目の皇帝に選ばれたに過ぎませんでした。
怪しい男・趙高の囁き
末っ子でありながら突然二代目皇帝に選ばれた胡亥。丞相の李斯の後押しもあったとはいえ、「なんで?」と疑問に思う人はたくさんいました。胡亥に特別な何かがあったわけではありませんでしたからね。皇帝に即位した当時20歳そこそこだった胡亥も「なんで俺?」ときっと戸惑っていたことでしょう。
そんな胡亥の耳元で囁いたのは幼少期から胡亥に教育係としてついていた趙高です。「胡亥さまの即位を良く思っていないご兄弟がたくさんいるようです。このままでは政をするのに差し支えが出てしまいます。」この言葉を受けた胡亥は男兄弟に限らず女兄弟までもを処刑しまくり、かえって人々を恐怖に陥れてしまったのでした。
胡亥の即位は趙高の思惑通り
実は胡亥が二代目皇帝として即位できたのは趙高による工作があったと言われています。始皇帝は死に際に遺書を残していたのですが、その内容を李斯を抱き込んで本来は長男である扶蘇が二代目皇帝として指名されていたはずなのに、あろうことか扶蘇に自害を迫り、後継者に胡亥を選ぶという内容に書き換えてしまったのだとか。
しかし、趙高がこのような工作をしたのは今まで教育係として胡亥を可愛がってきたからではありませんでした。趙高は胡亥を利用して好き放題政治を操りたかっただけだったのです…。
傀儡皇帝・胡亥
「皇帝なんて俺にはつとまらないよ~」と及び腰の胡亥をうまいこと宮中に押し込んで贅沢三昧させた趙高は思惑通りに政治をほしいままに操りました。贅の限りを尽くした阿房宮の建設や蒙恬をはじめ目の上の瘤といえる存在の処刑…。そんな政治を続けていれば当然人々からの不満が募ります。
その結果、陳勝・呉広の乱が勃発し、それに便乗して興った劉邦が都・咸陽に迫ると胡亥と趙高は互いに殺意を抱くように。最終的には趙高が謀反を起こし、秦の二代目皇帝・胡亥は殺されてしまったのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
胡亥と趙高に関しては鹿を馬と呼ばせるという「馬鹿」の語源となった故事や阿斗すなわち劉禅同様、「阿保」の語源となったと言われる阿房宮の建設など話題に事欠きません。しかし、そのすべては趙高によるものであり、胡亥が暗君であったかと言えば微妙なところです。ただ幼いときに趙高という魔物に目をつけられたが故に不幸にも暗君となってしまった胡亥には同情せざるを得ませんね…。
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